まずPV見て、自然光の美しさに惹かれた。撮影監督がエマニュエル・ルベツキと聞いて納得。
同じルベツキの『ゼロ・グラビティ』は以下のシーンや最後のシーンもとても良かった。
『バードマン』の長回しも舞台のようでとても良かった。
そして、レヴェナントはほぼ自然光による撮影長回しも健在でさらに磨きのかかった映像美にとにかく引き込まれた。特に冒頭のシーンは圧巻だった。
その映像美による外部の過酷で美しい自然と幻想的な内部の心情とあいまいに混じりあうマジックリアリズム的なイニャリトゥの作風がマッチして高い完成度を誇っていた。丁寧にじっくり作ってある。
ディカプリオとトム・ハーディの骨太な演技も見どころ。
映像だけでも傑作レベルなので映画館で観てほしい。
家の小さい画面だと魅力が半減する映画、迷ってるならぜひ。
坂本龍一の音楽は挑戦的で意図は分かるし悪くはないけど、ちょっと耳障りな時があって没入感を削ぐ時があったのでそこが少し残念。も少しアンビエント寄りのほうが好み。
※以降は完全なネタバレ。映画を観てからご覧ください
考察
単純に見れば、ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)によるフィッツジェラルド(トム・ハーディ)への復讐劇だ。だが、内面的な掘り下げていくと信仰や救済の話である。
先住民の子と妻を持ち理解を示すグラス。対照的にフィッツジェラルドは先住民に頭の皮を剥がされ憎しみを持っている。神に見捨てられたり救われたりの二人であるが、二人の至る道はどうなるのか。
この映画を見終わって、まっさきに思い出したのは『旧約聖書』の「ヨブ記」だった。
ヨブ記
この話は解釈が難しい話で、私も十全に飲み込めているわけではない。だいぶ雑な要約だけ書く。
信心深い善人ヨブがどこまで信じていられるかという問いをサタンが神に吹っかける。サタンによってヨブが病に侵されたり、子どもが死んだり、どんどん不幸に落としいられる。ヨブは最後まで信仰を捨てなかった。しかし、なぜこんな目に合わせて神は黙ってるのか?を問う。すると神が出てきて、なぜ答えなきゃいけないのか、お前に神の意図など分かるのかと叱責されて、ヨブは悔い改めて、その後は幸せに暮らす。
字面だけ追えばむちゃくちゃな話だ。この話は「なぜ全知全能の神がいるのに人に苦しい目をあわせるか」という問いに対して、答えや意味を求めるのも人間中心の考え方であって、人間には知りえぬ天意があって安易に答えの出る問題ではないと解釈している。
神学者や信仰者にスリッパで叩かれそうだが、人知及ばぬ理不尽な目あったときに神の試練としてアウトソーシングすることがキリスト教、ユダヤ教の信仰の形態の一つではないかと思う。問い続けるような問題で、簡単に答えられる答えはない。
ヨブ記からの脱却
なにゆえに神は受難を与えるか?に対して、答えのない苦しみがある。
なぜ自分は、先住民に襲われ、熊に襲われ、息子は仲間に殺され、見捨てられるのか。
振りに振りかかる受難につぐ受難。飢え、傷の化膿、ブリザード、川の冷たさ…。どうしようもないときに先住民の妻が現れ導く。
救うのは神ではない、土着のスピリットである。そして、一人のバッファローの生肉を食らう先住民に出会い、救われる。
復讐は自然に身を任せる
先住民にとって自然に身を任せるのが信仰である。この映画を見ると、厳しい自然は否応なしに自然の一部になることを強制させてくるのだ。荒野で飢えに苦しんだフィッツジェラルドの父はリスに神を見出す。
土地には土地の宗教がある。
途中、グラスの内的世界でキリスト教会の廃墟にキリストの磔画が書かれている。おそらくは「父である神に委ねること」のメタファーでそれの崩壊を描いていると思う。
キリストの信仰を捨てて自然に身を委ねる。寒さをしのぐために馬の腹に収まるかのように。
ここに、大自然のまま、自然光で撮る意義がある。身を委ねたくなるような、同時に畏怖を抱くような神聖さでなくてはならない。現実と神秘との境界があいまいなマジックレアリズムのイニャリトゥの世界観によって、自然の「神聖さ」と「リアリティ」がいっそう強調される。
魂の救済
フィッツジェラルドは狡猾で自己中心的ではあるが、神にせよ、自然にせよ、なるようにしかならないことに身を任せた潔さがある。行動に迷いはない。そこに人間の強さを感じる。
ただの悪者ではない。「息子は戻らない。復讐はちっぽけだ」と言い放つ。
最後の死闘でグラスはついに復讐などというちっぽけな人間中心的な発想を捨て去る。復讐も死ぬも生きるも自然に任せる。アリカラ族にも反抗せずに身を任せた。フランス人毛皮商から族長の娘ポワカを助けた恩で生き延びることになる。そういう縁も身を任せて歩んだ結果だ。
復讐をあの形で終えたことによって魂が救済され、現実とも空想とも入交じり、自然とも一体と化したグラスが涙を浮かべ、呼吸をし、スピリットたる妻を繋がる。
復讐を果たしたから泣くのではない。魂が救済されたのだ。あのあと生きてるのか死んでるのかは些細な問題なのだ。答えはない。