映画

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 

「君は望みを果たせたか」
「果たせた」
「何を望んだ?」
「みんなに愛されること」
― レイモンド・カーヴァー(劇中劇『愛について語るときに我々の語ること』より)

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』という映画を見た。映画の冒頭にこの引用が入る。

20年前に映画『バードマン』で一世を風靡した俳優リーガン。役者として落ちぶれ、バードマンの幻聴が聞こえ、妻とは離婚し、子どもはヤク中、再起をかけて自費でレイモンド・カーヴァーの舞台をするが…。

作品や役柄は愛されるが、本人が愛されるわけではない…。万人向けな映画ではないが、創作者や役者の孤独感を表現した映画だ。

ほぼカットなしの映像表現も見もの。

以降はネタバレ

あらすじ

リーガンは街に繰り出すとバードマンだと言われ、子どもを持つおばちゃんには写真を求められ、子どもは全然分からずに哀愁漂う。バードマンは愛されるけど、役者リーガンとしては誰も愛してくれない。

過去の栄光は断ち切ってちゃんと役者として見てもらいたい。グレた娘にちゃんと尊敬されたい。そういうエゴむき出しでお金使って脚本・演出・主演までやって、舞台に挑む。

そういう映画人のエゴイズムにホトホト呆れて大嫌いな評論家。ロングランか打ち切りかはこの人の評価次第。芸術である劇になんと失礼なことかと言う。

自我のバードマンが囁く。こんなくだらない芝居しないでまた映画やればいいじゃないか。

プレビュー公演では相手役で代役として投入されたマイクに話題は持っていかれ散々。お芝居ではなくて、自身のハプニングをYoutubeで流されそっちのほうがウケている始末。

人に忘れれられる悲しさや恐怖。認められたい思い。承認欲求を満たしたい。
でもお前に意味は無いのだ。お前の人生などすぐに忘れさられるちっぽけなものだ。メディアで刹那的に消費される世界なのだ。

バードマンがいよいよ実体化して言う。
派手にやってやろう、客はそういうのが好きなんだ。

そう思ったら空も飛べる。そう俺がバードマンなんだ。

吹っ切れて何もかも捨て去って、舞台の本番に挑んで評判は上々。
最後のシーンでバカにされたおもちゃの銃ではなく本物銃で自分の頭を貫く。

スタンディングオベーションに鳴り止まない拍手。

初めてカットが切れて病室。鼻が吹っ飛んだだけで済んだリーガン。
新聞では一面トップ、観客に本物の血を浴びせたとしてスーパーリアリズムと評され、病室前にはマスコミがたかり、娘と抱き合って安堵する。娘に認められ、世間からも認められた。

花の花瓶を探しに出た娘。バードマンのような包帯を剥がすリーガンとさようならを言ってトイレに座るバードマン。娘が戻るとリーガンはベッドにはおらず、窓を見る。

その先に見たものは…

 

感想

以上があらすじ。ちょっと書き出してみないと整理がつかなかった。

一貫して現実と虚構があいまいである。カット切らないのも現実と虚構を曖昧させるため。

現実に虚構を混ぜて現実を炙り出す。文学でいう南米特有のマジックリアリズムみたいだ。イニャリトゥはメキシコ人監督であるし。

ティム・バートン版のバットマンで一世を風靡したマイケル・キートンや売れない女優役でよく出るナオミ・ワッツも、もちろん今作も売れない役。こういうキャスティングを入れてくるので、そもそも映画と現実ですら曖昧になっている。バードマンはどう見てもバットマンであるし。

主人公のリーガン、大して実力も才能もないのにプライドだけ高くて、エゴむき出しで、八つ当たりしたり、自暴自棄になったり。ああ、なんだか情けない。

ドップリ感情移入こそしないもののどこか突き放せないところがある。自分だって同じじゃないかって思えるから。

一部界隈ではちょっとは有名になったものの、世間一般では無名に等しい。
せいぜいオリジナルの作品の出来の良さに乗ってるだけ、自分の作るものは無料でちょっと出来がだけだからウケるのだ。あぁそうやってバードマンみたいなものが囁く。

承認欲求が満たされることもあるし、それがすぐ消えてなくなるまやかしだという空虚さもある。

作品あるいは役柄が愛されただけで誰も自分のことなんて愛してくれない。創作する人や演じる人はどこかそういう孤独感みたいなものがあるんじゃないか。褒められたいのは自分自身なんだ。そういう気持ちは卑しいといえば卑しい。でも、無いとは言い切れない。

作中のリーガンはもう完全に吹っ切れて、空も飛べるようになる。この吹っ切れが非常に痛快で励みになる。うらやましいぞ。でも、その後の自殺行為で狂気を感じてちょっと複雑である。

このへんの葛藤とか吹っ切れとかのくだりに共感できるかとなると、創作する人や演じる人向けのお話ではある。だから万人には受けない。PG12のちょっと卑猥さもあってファミリー向けでもないし。

でも、私の心には残った作品となった。

最後のシーンは解釈が二通りできる。

  1. そのまま受け取って現実で鼻だけふっ飛ばして生き残ってる。
  2. 一カットの終わりこそリーガンの終わりで、実はリーガンは死んでいる。映像は虚構。

ああこれ、「胡蝶の夢」ではないか。私が蝶の夢を見てるのか、蝶が私の夢を見ているのか。

現実と虚構なんて、そんなことはどうでもいい。その場その場で力強く生きてみせろ!

リーガンは皆に愛されることを選びとった。

そしてそのようになったのだ。