映画

『レッドタートル』 自然の中の感覚


 

予告を見てその美しさと雰囲気にこれは観ておかねばと思った。ガラガラの劇場でゆったり静かに鑑賞するのはこの上ない贅沢であった。

セリフのないこの映画に文字で感想を書くのも野暮にも思える。しかし、書かないことには気がすまない。

 

ただ風の音が聞こえる。嵐の音だ。

どこの国の人でどの時代さえもよく分からない男が無人島に流れ着く。平面の島ではない。少なくともサンゴ礁でできた島ではない。

高さや岸壁があるから、火山島が隆起して沈下したのだろうか。竹林がある。温暖なのだろう。飲水があり、食糧には困らなそうだ。

徐々に色彩を失う夕日、夜の描写が美しい。目が簡略化された顔からは表情は読み取りにくい。

顔がアップで描写することも少ないので表現は体の動きから伝わる。動きがところどころコミカルなカニが面白い。

以降ネタバレ

 

四方を岩に囲まれた場所に転落し、海中の狭い通り道を抜けなければ死ぬという恐怖。

あの水の、海の久しく忘れていた恐怖の感覚を呼び覚ました。自分の身の上話になるが、小さい頃から海辺に暮らし、わざわざ海が目の前にあるのに、旅行するにもレジャーするにも海やプールなどが多かった。ヨットをやっていたし、海運の仕事を目指した時期もある。海を見ると落ち着くと同時に畏怖の念も持つ。溺れたり、流されたり、波に巻き込まれたりたくさんそういう経験をした。あの自然の大きさの前に自身のちっぽけさを思い起こす。

男はいかだを作って脱出をはかるが何かに破壊されて失敗が続く。正体をついに突き止めたがそれは赤い亀だった。

陸に上がった赤い亀に棒きれで叩いて怒りをぶつけ、起き上がれないようにひっくり返す。その間にいかだで脱出できる。

男はある日、亀が昇天する夢を見る。慌てて亀を介抱するがあえなく死んでしまったようだ。

亀から亀裂が入り、人間の女の姿になっていた。ふと、なぜだろうと思った。鶴の恩返し鶴が人間の姿になるのになぜもないがあれはあれで目的がある。この女は目的がよく分からない。

羞耻心はあるようで、裸のまま海からでてこない。男は自分の上着を差し出し一緒に暮らすようになる。割れた亀の甲羅を流し、男はいかだを流す。男は島を出るのをやめた。文明的な生活を捨てたと言ってもいい。

いつしか子どもが生まれ、成長する。出産の労苦や子育て、子離れの葛藤も描かれない。そういうのは人間の話だからだ。描写されるのはただ自然の一部としての人間だ。

最初は理屈で観ていた。少ない情報から理由や手がかりを探っていた。しかし、観てるうちにどうでもよくなった。

空があって海がある。灰色がかった日もあれば、明るい日もある。夜は暗い。

この話に文明らしさがないのだ。文字もなければ、言語もない。雨宿りは作ったが、家を作ったり、生活を良くする道具を作ったりそういう描写はない。

ただ一度だけ、火を使う、絵を描く、二人でダンスする。すべてを捨てたわけでもない。自然の中に内包されてそういう人間らしい営みがある。

男が死んだとき、埋めもしなければ、墓標も立てない。人間として死ぬわけではなく、自然として帰るのだ。

女は手に触れる。その感触が人間としてのお別れだ。女は赤い亀となって海に帰る。

いかに自分の考えが人間中心になっていたか。すべてに因果があるとは限らない。ごちゃごちゃ考えすぎなのだ。

映画という嘘に、自然の中にいる感覚を呼び覚ますのだ。これは何かのメタファーではない。自然や生命のそのままの描写と民謡のような世界で描いているように感じた。

多くは語らないこの映画にみんなは何を思うだろう。少なくとも私にはいい映画だった。観てよかった。

 

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