映画『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』を観た。
1992年、北朝鮮の核開発によって緊張関係にあった朝鮮半島。軍人であるパク・ソギョンは工作員として北への潜入を命じられる。パクはこれまでの人生を捨てて事業家になりすまし、北朝鮮の対外経済を一手に引き受けるリ・ミョンウン所長と接触する。
リ所長は南側の情報提供、つまり北のスパイにならないかと打診する。双方の腹の探り合いの後ろでうごめく情勢の変化、心情の変化の行く先は…
黒金星(ブラック・ヴィーナス)という実在のスパイをモデルにした韓国のフィクション映画だ。アクションなし、ロマンスなしのル・カレ的な硬派な作風で、役者の演技、カメラワーク、セットやメイク、脚本どれをとっても質が高い。それでいて過度に政治的すぎるわけでもなく、エンターテイメントとしても面白い娯楽作品になっている。
北朝鮮でロケや取材ができない状況で、脱北者の取材や資料で再現した北朝鮮の風景や宮殿も見どころだ。
前半は情報量が多くて混乱するかもしれないが、主要人物は4人で話は複雑すぎない。朝鮮半島情勢に関しても作中で説明されるので、予備知識はなくても大した問題ではない。が、軽く背景を解説する。
時代背景
1910年の韓国併合後は日本統治下であった朝鮮は、日本のポツダム宣言受託後に、北はソ連、南はアメリカが統治。1950年に朝鮮戦争が勃発して、双方国土は荒廃し停戦した。その後の経済は低迷。
韓国
韓国では学生デモで南北統一の機運があったが、軍事クーデターによって軍人であった朴正煕(パク・チョンヒ。パク・クネ元大統領の父)による軍事政権を樹立。強権政治体制ではあったが、ベトナム戦争の参戦や日米協力下による工業化で経済は再建した。しかし、1979年側近である大韓民国中央情報部(KCIA)の部長によって朴正煕は暗殺された。その影響で民主化の機運が高まったが、再び軍のクーデターが起こり、新軍部による軍事政権が続いた。その間に民主化運動は激しく弾圧を受けていた。
KCIAは朴正煕のクーデター後に米CIAの協力を元に設立された大統領直属の諜報組織である。北朝鮮工作員の摘発と、反政府運動の取締を主に活動としていた。民主化運動の中心人物であった金大中(キム・デジュン)は、KCIAによって命を狙われることになる。1973年、東京にいたときに拉致される金大中事件が起こる。
KCIAはその後1981年に新軍部下で再編拡大され、国家安全企画部、通称「安企部」となる。民主化が徐々に進み、87年に大統領直接選挙が実現したが、野党票が金泳三(キム・ヨンサム)、金大中に割れて、与党の軍出身者の盧泰愚(ノ・テウ)が当選。金泳三はその後与党と組んで、旧軍部の協力もあって92年に大統領当選。しかし、そのあとは一転して旧軍部勢力の一掃を進めた。97年にアジア通貨危機があり、金泳三の任期満了もあって、大統領選が行われた。金大中が再び立候補することになる。
北朝鮮
満州の抗日パルチザンであった金日成(キム・イルソン)が45年終戦後に帰国。ソ連当局の後押しで指導者の道へ進む。はじめは弱小勢力であったが、対抗勢力の粛清を進めて、72年に独裁体制を確立した。社会主義国からの支援を受けて、70年代までは韓国に対して優位で、北主導の南北統一を提案していた。しかし、80年代になると中ソとの対立が進み次第に孤立化、計画経済が行き詰まり経済発展が停滞していった。一方で韓国は経済成長を遂げて、次第に国力差がついていく。韓国への対抗意識に燃やし次第に対立路線に変わっていく。軍事強化と一層の中央集権化を進めた。韓国に対しては度々軍事的挑発やテロを行っていた。青瓦台襲撃未遂事件、ラングーン事件、大韓航空機爆破事件など。
80年末期~90年初頭の共産圏の民主化の流れで、諸国との経済交流が断絶して深刻な経済危機に陥る。計画経済が破綻して、配給が滞り餓死者が続出。食料を求めて脱北者が相次ぐ。94年に金日成が死去し、息子の金正日(キム・ジョンイル)が最高指導者となる。95年には水害により、大飢饉が起こる。
北朝鮮は55年から核開発を進めていた。93年に核不拡散条約(NPT)の脱退を宣言して緊張関係が高まる。94年にIAEA(国際原子力機関)から脱退。
映画の舞台となる90年代半ば頃は、社会主義国の崩壊による経済支援激減と、国策の失敗や災害による飢饉によって、とにかく外貨の獲得に奔走していた時期であった。
双方自分たち主導で統一したい思惑と、国内情勢によって融和や軍事的緊張が変化していく朝鮮半島というのは頭に入れておきたい。
感想
朝鮮半島政治の奇妙さに対する驚きと、エンタメとしての堅実な面白さの両方で楽しめた。とくに緊張感のある関係の果てにある友情が好みだし、よかった。
冒頭の黒金星の存在を把握する人物の3人のうち1人はコードワン=大統領旅客機=大統領のこと(だと思う)。安企部は大統領直属の組織であることの伏線である。アクションなしのスパイものであるため、説明的すぎると緊張感が失われてしまうし、かといって説明ないと状況が掴めず置いてきぼりになるので、説明の過不足のなさもいい。
主要人物は韓国側が工作員黒金星のパク・ソギョン、黒金星の直属の上司の安企部チェ室長。北朝鮮側が対外経済委員会リ・ミョンウン所長、安全保衛部の課長チョン・ムテク。
パク・ソギョンは主人公なのに一番素性がよく分からない。リ所長と違って家族も出てこないし、商売人の顔をしているときは愛想いいが、素のときは無表情。しかし、それらがかえって仕事に対するストイックさと一歩間違えると死にかねない緊張感を出している。
そもそも全員が責任の重い立場であり、職務には忠実なのだ。後半になると背景のほうが動き出して、立場や性格から行動の差異が出てくる。
外貨と軍事強化の正当性がほしい北朝鮮と、軍事的緊張状態にあるほうがより国民が保守的な与党支持に回る選挙情勢、金大中が大統領になると廃部になりかねない安企部の思惑が合致して大きく動きだす。
大統領直属という立場でチェ室長は安企部の存続と保身に走る。国家の保安を任されているチョン課長は野心家の、エゴの側面が出てくる。対比的にパクとリ所長は友情、南北の友好や飢餓を救う大義があってお互いの危険承知で金正日へ直談判に出る。
大義の一方で、これまで温めてきた広告の計画を台無しにされたくない思いもあったはずだ。それは仕事に対するプライドとエゴでもある。ちょっとした部分に残る人間臭さが、清廉潔白で白々しくなりすぎない、いいバランスになっている。
安企部の工作でパクがスパイとの情報を北朝鮮で流され、リ所長が銃を突きつけるシーンにそうしたバランスが発揮される。職務に忠実であれば、パクはあそこで殺したほうがよかった。しかし、安企部の工作に乗ってしまうという面と、なによりパクとの友情がある。危険な目にさらされる怒り、裏切り、信頼しつつもどこかで疑っていたリ所長の葛藤が現れる。
チョン課長に銃を突きつけられたパクの動じない姿を見て「浩然の気」とリ所長は評したシーンのリフレインでもある。「浩然の気」は孟子の言葉で、物事にとらわれない、おおらかな心持ちのこと。この不屈の道徳精神をパクを逃がすことでリ所長も発揮するのだ。
後年の再開で、まがい物のロレックスが真の友情を表していた。あの葛藤がなければロレックスは輝かなかったであろう。