映画

『ホテル・ムンバイ』ふつうの人々を描く意味

ホテル・ムンバイ
(C)2018 HOTEL MUMBAI PTY LTD, SCREEN AUSTRALIA, SOUTH AUSTRALIAN FILM CORPORATION, ADELAIDE FILM FESTIVAL AND SCREENWEST INC

『ホテル・ムンバイ』を観た。2008年のムンバイ同時多発テロを題材にした実話ベースの映画である。予告見ると英雄譚やヒューマンドラマっぽさが強調されているが、実際に映画観た印象は違った。

貧困層のシク教徒の主人公、右往左往する従業員と宿泊客、あどけなさの残る少年テロリスト、装備や人員の貧弱すぎるムンバイ警察、描かれるのは皆ふつうの人々だ。だからこそ、リアリティのある作風になっている。

『ホテル・ルワンダ』とはタイトルと暴力に対してホテルマンが奮闘するあらすじは似ているが雰囲気は随分と違う。ルワンダは主人公ポールの機転や人脈で危機を切り開いていき、ヒューマンドラマの要素が強い。テイストこそ違うがこちらも名作なので是非。

『ホテル・ムンバイ』は『ボーダーライン』『ウィンドリバー』の製作陣でそちらに近い容赦のなさがある。テロのリアリティと無力感を描く。マクレーンやジャック・バウアーみたいな強いヒーローなどいない。宗教対立のテロで交渉の余地も躊躇もない。

なぜインドでテロが起こるか、その背景については本編で説明されないのでちょっと解説する。

【公式】『ホテル・ムンバイ』9.27(金)公開 /本予告

背景

インドでは13世紀のデリー・スルターン朝からムガル帝国までいずれもイスラム教の支配が続いた。しかし、融和的な政策もあり被支配者であったヒンドゥー教とは共存していた。ムガル帝国が滅んでイギリスの直接統治下に入り、イスラム教の支配者としての地位は奪われ、ヒンドゥー教は優遇され地位を上げた。インド内で反英運動が盛んになると独立の力を削ぐために、互いの宗教対立を煽った。ベンガル地方(現在の西ベンガル州とバングラディシュ)をイスラム教徒の多い地域とヒンドゥー教徒の多い地域に分ける分割統治を始める。その後は宗教対立が激化していった。

第二次世界大戦後にイギリスは疲弊して衰退の道を辿り、インドは独立の機運が高まった。しかし、宗教対立が修復できずガンディーが望んだ統一インドの夢は破れ、インドとパキスタンは分離して独立することになった。

分割の際にインドのイスラム教徒はパキスタンへ、パキスタンのヒンドゥー教徒とシク(シーク)教徒はインドへ大移動が起こった。この影響で社会が混乱し難民化したり、暴動やテロが頻発した。

主人公のアルジュンはシク教徒という設定である。実際のドアマンのほとんどがシク教徒で、主演のデヴ・パテルが監督に提案したそうだ。

シク教の総本山はインド北西のパンジャーブ州にある。そのため州の宗派の58%を占めるのがシク教徒だ。パキスタンとの国境際のため、パキスタン側にもパンジャーブ州がある。分割された際に多くが難民化した。そして都市部に流入してスラムを形成した。アルジュンはそういった都市部に流入してきた貧困層のシク教徒ではないかと推測される。

シク教はヒンドゥー教から派生した宗教で、イスラム教の影響を受け、カースト制度の否定、偶像崇拝の禁止、男性のターバン着用などが特徴だ。ヒンドゥー教(約8億人)と比べれば少数派だが、世界で5番目に信者が多い(約3千万人)。信者には富裕層も多くて社会的な地位は低くはない。シク教でも分割後に分離独立を目指す急進派が台頭して、テロが頻発。

主人公アルジュンは誠実で敬虔な教徒であるが、境遇によってはテロ実行側にもなりえたかもしれない。

インド・パキスタンの領土問題と宗教対立は現在でも禍根を残している状況なのである。

2008年11月26日夜、インド最大の都市であり商業の中心地でもあるムンバイで、同時多発的に発生した10件のテロ立てこもり事件が起きた。 少なくとも約170名が死亡、負傷者は239名にのぼる。イスラーム過激派による犯行、パキスタン側の勢力なのか、インド内の勢力なのかははっきりしていない。

映画ではダージマハルホテルでの出来事に焦点を当てて描かれる。そことは別のトライデントホテルでは三井丸紅液化ガスの日本人社員が銃撃を受け死亡している。宗教対立でのテロではあるが、決して別の世界の遠い話ではない。

以降はネタバレあり感想

感想

テロリスト側もホテル側も未熟なところがあって、それが却ってどう事態が動くのかわからない緊張感を出していた。

ムンバイのような都会の観光地にある高級ホテルだけあって、宿泊客も多様である。それぞれ認識に粒度があって、あの状況下で団結するのは難しい。

たとえば疑心暗鬼に陥ったイギリスのマダムが、子持ち婦人のザーラ(ナザニン・ボニアディ)をスパイだと不安がるシーン。ザーラはおそらくイラン系のイスラム教徒で、ウルドゥー語を話すテロリストたちとは言語レベルで違う。そのあと、アルジュンのターバンとヒゲを不安がるマダム。イスラム教徒もターバンを巻くしヒゲも生やすからだ。特徴に近い要素があれば敵の仲間ではないかという認識は随分と雑ではあるが、あの状況下で理性を働かせるのは難しいものだ。

アルジュンは落ち着いて諭す。自分はシク教徒で、ターバンを欠かさず着用してきた敬虔さとターバンの宗教的意味を開示し、それでもお客様のためなら外すことも厭わないと言う。美談というよりは、誠実に開示されたものについて、中々ノーとは返せない。うまいこと落とし所を作ったと思う。このシーンはとてもよくて印象に残った。

もう一つ特徴的なのは犯人側も描かれることだ。実在の事件をベースとしてるだけに、実際の犠牲者いるだけにまずは倫理的な難しさがある。テロ行為こそ断じて許されないが、犯行側にも複雑な理由や歴史がある。またステレオタイプを助長しかねない。映画としても犯行側が見えないほうが緊張感を保ちやすい。

しかし、この犯人側も人間として扱うことこそ、この映画での重要な点だ。

ふつうの人々だからこそ、どちらの立場にもなりうる。そして、非人間化によるテロ行為、分断に対抗するための人間扱いなのではないだろうか。かわいそうだという同情を要求しているわけではない。

テロの指示者ブルは「あいつらは人間じゃない」と非人間化し敵であることを強調する。非人間化すればいくらでも残虐になれることをテロ行為を通して描写する。テロの首謀者にしてみれば少年兵すら人ではなく捨て駒なのだ。

少年兵は豪華なホテルに圧倒されたり、つまみ食いしたり、貧困ゆえに志願したり、同胞を殺せないなどの人間的な部分が度々出てくる。父親に電話したあと、足の痛みや、思い通りにいかないやるせなさ、これからの顛末を想像するなどいろんな感情が入り混じっての泣き崩れるシーンは特に人間らしい。こうやって人間らしく描くことでテロの非道さが逆に強調される。

そして、変に悪魔化せずに相手の事情を知るのもテロの防止に繋がるのではないか。もちろん抑止力や危機管理体制をしっかりしておくのは大前提だ。アルジュンがマダムを説き伏せたときのように知ること・知らせることも大事である。

だからこそ、特に最後でヒロイックな面が強調されるのがあざとい気はした。この内容なら美談にする必要はない。叩いていいと思えばいくらでも叩くみたいな非人間化をよく見かける昨今では、ふつうの人たちが助ける側にも、暴力を起こす側にもなりうる。教訓としての記録映画的な意味もあるので、もう少し抑制を効かせても良かったと思う。

とはいえ、ふつうの人々を描くことで、テロの悲惨さについて否応なく考えさせられる良作であった。