映画『ジョーカー』を観てきた。
バットマンの宿敵ジョーカーは動機不明の悪のカリスマとして描かれてきたが、今回は不憫な男からの誕生譚を描く。
派手なアクションもなくエンタメ性の薄い地味な映画だが、スカッとしたという人もいれば、ひたすら落ち込んだ人、問題作だと言う人、恐怖を覚える人、考えされられる人、狙いすぎだという人も本当に様々な反応があって面白い。
これは映画を通して、その人がどういう受け取りをしているかが垣間見れるのでぜひ感想を書いてほしい。
ポップな楽曲と陰鬱なオリジナル音楽、主演ホアキン・フェニックスの虚しさと狂気が混じった躁鬱感、控えめな色合いと派手な原色がマッチして、映画としての完成度も高い。
感想
説明できないことに対して人は畏怖を感じる。それを予測不可能な自然災害を悪魔や妖怪のせいにして対処してきた。科学の進歩によって原因が解明されその意識は薄れてきたが、今は「さっぱり理解できない悪魔」より「共感できる悪」のほうがずっと怖い存在になった。
共感には二面性がある。連帯や道徳を促す一方で、復讐や報復を正当化し「理解できない存在」にはいくらでも他罰的になれる。
作中ではアーサーへの共感の欠如が示される。ひたすら共感されない・理解されない存在として描かれる。大衆からはジョーカーが持ち上げられるだけでアーサーとしては誰も見向きもしない。共感できるのは観客しかいない。
しかし、作中はずっとアーサーの視点で描かれ、本人の妄想癖からいって「信頼できない語り手」である。どこまでがアーサーの妄想かジョークなのかは分からない。
最後の病棟シーン以外はずっとアーサーの妄想で、共感できる悪としてのストーリーをでっち上げているのかもしれないと思った。それで自らの悪の正当化なのか、扇動方法の思いつきだったのか、あるいはアーサーに同化し便乗しようとする悪への嘲笑だったのかもしれない。
アーサーは自己愛も強くて、ショーでの自殺リハーサルや願望の妄想で示される。環境によるものか元々そうなのかはよく分からない。そのさまは痛々しいほど気の毒になってくるが、同時に同化してしまう観客について自己愛が過ぎると突きつけてる気もした。この突き放しは、トゥレット症候群の苦しみは頭で理解できても気持ちに寄り添うのは難しくて残酷な描き方ではある。
チャップリンの『モダンタイムス』を見て笑うエリート層の貧困への理解できなさや自己責任論の高慢さを皮肉る。貧困や家庭内暴力はロクなものはもたらさない。犯罪心理への理解が進んで、ほとんどの加害者はその前になんらかの被害者であって、加害者になる前に予防できるのが望ましいのである。福祉は大事。
変わった人でも社会から疎外されない、せめてバカにされない世界であればマシであったかもしれない。『まちカドまぞく』の世界に行ったらいいと思うよ、アーサー…
楽曲もよかった。小児病棟では「幸せなら手をたたこう」、予告やライブの舞台に上がるシーンで「辛いときでも笑って」という歌詞の「スマイル」が流れ、真相を知って母を殺めるところでの「これが人生だ、滑稽だけども」という「That’s Life」とポジティブさが逆に境遇のつらさを引き立てる。段々狂気を帯びてきてジョーカーとして階段で踊るシーンは「Rock&Roll Part II」
そして、オリジナルの楽曲は故ヨハン・ヨハンソンの弟子ヒドゥル・グドナドッティルが手掛けている。既存のポップな曲とは対照的に、まさにジョーカーの内面のように暗くてスリリングで、狂っている。
被害者に同情できて加害者が叩けそうなら存分に叩く、私刑じみたリンチや自分さえよければいいみたいな価値観もよく見られる昨今で、表裏一体の社会を描く現代の寓話のように私は感じた。いい映画だった。