映画

『万引き家族』優しさと冷静さ

好きな言葉に、近代経済学の祖アルフレッド・マーシャルの”Cool Head, but Warm Heart”がある。「冷静な頭脳と温かい心」どちらか一方でもダメなのだ。

以前、学生の映像作品にアドバイスする番組を見ていた。冷静で的確であってそれでいて、温かみのある意見を出す人がいたのが印象に残っている。それが是枝裕和監督だった。そして、映画にもそういった雰囲気が出ている。

ドキュメンタリータッチのような淡々とした描写が続き、ときには冷徹な描写もありながら、それでいて温かみがある、どこか和むようなところがある。これがやはり監督の持ち味だと思う。

『万引き家族』もまた、そうした監督の持ち味が遺憾なく発揮された作品だった。

社会派の映画でありながら、社会に問うてやろうみたいな自意識は徹底して省かれ、全面には出てこない。場違いな正論や説教が響かないように社会性だとか政治的メッセージを強く盛り込んだとしても映画が面白くなるどころかかえって興ざめする場合もあるのだと、分かっているからである。

犯罪や虐待などの繊細な題材であるので必然的にエンタメにも、お涙頂戴のような単純な話にもならない。だからといって、難解すぎるわけでもつまらないわけでもない。会話の端々はところどころ笑えるし、感情の形容しづらさに頭抱えてほしい。

以降はネタバレあり

父の治(リリー・フランキー)は日雇い労働をしており、信代(安藤サクラ)はクリーニング店で働く。

ばあちゃん(樹木希林)は月6-7万は家計に収めてるそうだから、家賃ないことを考えれば、万引きしなくともギリギリ暮らせなくもないふうに思える。ばあちゃんは一度パチンコしてる描写があるけど、お金を浪費するようなどうしようもなさもない。家族はお酒は飲むが中毒というわけでもない。

万引きすること自体に強い必然性はなくて、楽に物を手に入れる手段として常習化してしまっていている。コロッケは買うのだから、すべて万引きで手にしているわけではない。
しかし、怪我や業績悪化で仕事を減ったりすると、さらに万引きに手を染めてしまう。社会的な弱者を追い詰めるとますます、犯罪が増える。そういうギリギリの生活者のために生活保護はあるのだが、彼らは身元が割れてしまうことによって捕まる可能性がある。社会の、いっぺん落伍したものへの厳しさが強い。
真冬の廊下に放置されていたゆり(佐々木みゆ)を見かねて連れてくるのは父の治である。

亜紀(松岡茉優)は「誘拐じゃないか」と言うが…この段階では返すつもりでいた。しかし、次第に自分たちと同じく家族に愛されなかったゆりに愛着を持ってしまう。

それまで可愛がられてきた翔太はその立場をゆりに奪われてしまう。だから、最初はゆりのこと嫌っていたが、次第に打ち解けていく。そして、妹として守らなければならない責任感を持ったことが崩壊を加速させる。

駄菓子屋のおじさん(柄本明)が子どもたちの万引きに気づいて、売り物のアイスをあげてから、「妹には(万引き)させるな」と言う。さっきやった万引きに対しては咎めない。肯定も否定もなく真摯に向き合うこと。そういう優しさがあった。ここから、翔太はさも当たり前のようにやってきた万引きは良くない行為なんじゃないかという疑念が芽生えはじめる。

ここがやっぱり転換点なんだと思う。万引きという良くない連鎖を止めるのは、ふと考えてしまうことを促されるような優しさ。そういうものも連鎖するのではないか。

翔太は万引きはしていいことなのか、大人たちに聞いてみる。けれども、大人たちは適当に言い訳してはぐらかす。もうそれが染み付いてしまっているのだ。悪いのは当の本人たちも分かっている。蓋をしてきちんと向き合おうともしない。

りんが万引きに手を染めようとした瞬間に、とっさに自分が万引きをして捕まる。治と信代が警察に行くが自分たちも捕まると感じ、帰って逃げようとするところで捕まった。家族たちは無理解とも現実とも言える尋問によって向き合ってこなかったことに闇と向き合うことになる。

治はしきりに父ちゃんと呼んでほしいと言うが、翔太は気恥ずかしがって言わない。信代は大したことじゃないから気にすることはないと言う。しかし、尋問で「子どもたちからなんて呼ばれているのか」と言われると、返答に困る信代。子どもたちから「母」と呼ばれることは一度もなかった。それまできちんと向き合ってこなかった自身の母性や気持ちと向き合うのだ。積極的に母と思ってほしいわけではなかった。自分の親から愛されなかったから、子どもが産めないから、母にあこがれがあったのか。そんな単純な問題ではない。あの長い間が雄弁に物語る。言葉では形容できないのだ。

“あのシーンは、監督がホワイトボードに書いたセリフを、刑事役の池脇千鶴さんにだけ見せて、そのセリフに私が返すという撮り方でした。本当は泣きたくなかったんですけど、彼女が抱える“母性をどう受け入れるか”という葛藤を思いっきり突かれて、動揺してあんなふうになってしまいました”

安藤サクラ、念願のカンヌ「初めての“是枝組”を一言で表現すると?」

結局信代が一人ですべての罪を背負うことになった。「いいよー私は幸せだったから。楽しくて楽しくてお釣りが来るくらいだよ」肩の荷が下りた。
自白した亜紀が、居ないとわかりながら、かつての疑似家族の住んだ家に戻る。あの、楽しかった頃の残滓を見ているような気がした。

偽物の家族ではあったけども、他愛のない会話をし、見えない花火を見て、海で遊んだ楽しい記憶に偽りはない。セミの抜け殻いっぱいつける子どもや、「やっぱり夏はそうめんだな!」って言う人達は観客から遠い人たちなんだろうか。

釈放された治と、施設に入った翔太。最後に一緒に釣りして、雪だるまを作って、それまでで最も父子らしいようなことをする。翔太に問われて、見捨てたことを認め、「俺、おじさんに戻るわ」と打ち明ける。帰りのバスに乗る前に、翔太は「ごめんなさい。僕が…わざと捕まったんだ」と打ち明ける。
治は「いつもはうまくいかねーよ」と答える。どこかでまだ踏ん切りがつかないどこまでもダメで、憎めない大人である。

翔太はバスの中で、姿が見えなくなるまでは決して振り返らなかった。そのあと、声にもならない声で「父ちゃん」と言ったような気がした。決別したからといって、絆がないわけでも、未練がないわけでもない。

ゆり(りん)はじゅりとして家に戻される。血縁が依然として重要視される日本。虐待する親に「服を買ってあげるからおいで」というのに対して、じゅりは拒絶する。本当に愛してるなら殴ったりしないことを、信代から教わったからだ。そして、廊下で信代に教わったビー玉数えで遊ぶじゅり。誰かが来たのを乗り出して見るシーンでこの映画は終わる。

ここで誰かしらの家族が向かいに来たシーンを明示的に入れてしまうと、この映画のテーマは家族の絆ということになってしまう。そうなると、犯罪で成り立つ家族の肯定ということにも繋がりかねないので、それはないだろう。

じゅりを拾った治と一緒にいた翔太である可能性もあるし、そうじゃないかもしれない。いずれにしても、今のじゅりなら誰かしらに頼ることができるであろうか。そんな期待を持てるのがこの映画の救いではある。

絆とか愛というよりは「連鎖性を断ち切る」「教える/教わる」という行為があるのではないか。治は万引きしか教えることがなかったというが、本当にそれだけだったのだろうか。

今年5月に目黒で5歳の女の子が虐待で死亡した事件があった。冬にベランダで放置されていたという事実に、どうしてもこの映画と重ねてしまう。

痛ましい事件があったときに表面的な部分しか見ていないんじゃないか。見えない人たちにちゃんと向き合うための想像力は私達にあるだろうか。そんな問いが静かに問われている気がした。あの駄菓子屋のおじさんのような優しさと冷静さで…

「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪うこともせずにただ理解することにひたすら努めた」スピノザ

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