ゲーム

『The Stanley Parable』プレイヤーとゲームにまつわる寓話

決められた作業して生きてきたスタンリーはある日、同僚がいなくなったことに気づいた… 「スタンリーは開いているドアが2つある場所に来ました。 そして彼は左のドアに入りました。」

さて、これを聞いて君ならどうする? 左に行くのか、右に行くのか。そういうメタアドベンチャーゲームだ。プレイヤーの行動によって生真面目そうなイギリス英語のナレーターは困惑したり、発狂したりするのを楽しもう。

The Stanley Parable

低スペックでも遊べるし、ゲームが下手でもできる。日本語化もあるから安心だ。

「以降の話はネタバレなんだ。君はプレイしてから読むことにした。」

何の教訓話?

Parableを訳すと「寓話」である。人を使ってたとえた教訓話だ。寓話(Fable=擬人化寓話)といえばイソップ物語で「ウサギとカメ」は誰もが知る話だ。過信すると失敗したり、能力が低くてもコツコツやれば大きな成果になるという教訓を伝えるための話である。

では、このゲームは何の教訓話なのだろう。

スタンリーを通じて何を伝えたかった?

ドアに外見や五感でわかる違いはないドアで、「ドアが2つある。スタンリーは左に行った。」と言われて、この時点で「左という決まった道」を示されたので、これが判断の基準になってしまう。

つまり、ナレーターに従うか従わないかの話になる。
これは本当に自由なのか。

これが「ドアが2つある。どちらを選ぶかは任せる。」だったらどうだろう。
意志を持って決められる問題なのだろうか。

アリだったらフェロモンが多い方を道を選ぶ。そこに意志はない。どちらとも判断できる差がなければ、その決定はランダムになるだろう。ランダムな決定は自由な意志と言えるか?

いいや、言えない。

脳科学や認知科学の進歩でわかってきたのは悲しいまでに人間の自由意志ってものがなくて、あったとしてもすぐ周りに左右されるほど脆弱すぎることであった。

「あなたの選択は本当に自由なのか?」

ゲームの条件

ゲームはプレイヤーがいて、プレイヤーがゲームに介入する。これはビデオゲームに限らない。

将棋ならプレイヤーが駒を動かさない限り、ゲームにならない。ゲームにはルールがある。将棋は駒を指した勢いで相手の駒を吹き飛ばすゲームではない。駒に役割があって、歩なら手前に一つしか進めないし、王将はすべての方向に一つ進める。将棋盤は駒の動かせる範囲を決め、プレイヤー側の行動に介入する。

プレイヤーとゲームが相互に作用(インタラクション)しあって、はじめてゲームとして成り立つのだ。

「君が将棋の駒を不意に持ちあげ、相手に投げつけるのは自由だ。しかし、ゲームとしては成り立たなくなってしまう。」

こんなことはわざわざ書かなくても、なんとなく分かってることだが、この相互作用という前提条件をネタにして『The Stanley Parable』の話ができているのだ。

全部ではないが、スタンリーが迎える各エンディングの結末について書く。
「まだ各エンディングで遊んでない人は読まないでプレイするんだ」

エンディング一覧

フリーダムエンド

すべてナレーターの指示通りに動く。

ドアは左、階段は上、上司の部屋のパッドの暗証番号はなぜか知っていて、巨大なモニタールームに来る。そこでスタンリーは監視されていることを知る。

そして、感情までコントロールされていたのだ。マインドコントロールルームのスイッチを切って自由な世界へ飛び出す。

オープニングでスタンリーは単調な作業、単調な作業を好む人格、番号がついてることがわかる。この時点でスタンリーは管理された人間でそれを開放する話だと推測できる。そういう話はよくあるからだ。

しかし、本当に自由になるためにナレーターの指示通りに動く、というまったく自由ではない行動を取る必要がある。なんだか矛盾してやしないか。本当にスタンリーは自由になれたんだろうか?

このエンディング後はスタンリーは勝手に動くので、ある意味ではプレイヤーからの自由は得たかもしれない。

爆発エンド

ナレーターの指示通りに動いて、最後のスイッチだけ歯向かってオンにする。

けたたましいカウントダウンが始まり、ナレーターは施設が爆発して死ぬと言う。
ドラマだったら何かしらの解除方法があってギリギリで助かるシチュエーションだ。マインドコントロール室には意味ありげなスイッチが並んである。

なんとなくスイッチを押してみるが、助からない。プレイヤーが取れる選択はまったく無意味。生きられるんじゃないかともがくのを面白がるナレーター。鬼。

狂気エンド

ドアは左、階段を下へ。

自分を見下ろしても手も映らない。ドアは勝手に閉まる、道は繰り返し。これは夢なんじゃないか、自分の実在性が分からない。スタンリーは狂気に陥る。

というナレーターのシナリオに勝手に乗せられる。

博物館エンド

マインドコントロールルーム手前で左に抜ける。

ナレーターは先に進むと死ぬというが無視して先に進むとスクラップにされる。死亡したと思いきや、ナレーターのナレーターがでてきて、謎の博物館に到達。『The Stanley Parable』そのものが展示されている。

このゲーム自体メタ目線(ナレーターが神のような高い目線から指示出しちゃう)のゲームなのだが、ナレーターのさらに上をいくナレーターがでてきて、メタのメタになってる。

この博物館もメタのメタになってて、これ自体アートでしょみたいな自画自賛してるかのような雰囲気。出口に向かうと、二人(ナレーター=ゲーム制作者とプレイヤー)はお互いを憎しみ合い、(ナレは)支配しようとし、(プレイヤーは)逃がれようともがく。

またスクラップ場に戻る。二人が助かる方法は一つ。ゲームをやめること。これ以外の選択肢は誰かの決定でしかない。※でもこの時点でやめることもゲームの選択肢になってしまってる。そこもネタなのだ

教訓:プレイヤーもゲーム(制作者)もお互い存在しないとゲームが成り立たないこと。プレイヤーもゲーム制作者もお互いちゃんと信頼してね。

混乱エンド

右、倉庫前で左、途中のエレベーターを降りる。

物語が消失してナレーターが混乱する話。物語を見つけるという目的のため、ナレーターとプレイヤーが自然と協力体制になっていく。

ただどれもうまくいかなくて、物語は要らないんじゃないかとか、ナレーターとプレイヤーで自分たちが物語を作ればいいじゃないかとかそういう話になる。

最終的に「混乱エンド」と書かれた部屋にたどり着く。ゲームの進行役とも言えるナレーター自身もまたプレイヤーと同じく、自由に選んでるかと思いきや全て決められていた存在に気づく。ナレーターは絶望してリセットしてしまう。

プレイヤーの上の次元の存在みたいに振る舞ってるがそうではなかった。さらに上位の存在=ゲーム制作者の手のひらの上だった

ゲームエンド

右、倉庫、リフトの途中で飛び降り、青ドアを三回抜ける。

ナレーターの指示のすべてに反抗するパターン。

テクスチャさえ貼られてない未完成の部屋に出る。ナレーターはことごとく無視されたので何が悪かったのか考えはじめる。

何が必要だったのか、乗り物?スキル習得?

新しい試みとして、ドア選択に戻って第三のドアができる。選択肢が増えれば満足するのかの実験と、選択肢が増えても結果が同じだった場合の評価の実験。

新しいゲームに移る。ボタンを押さないと赤ちゃんが炎に突っ込むゲームだ。4時間連続で続けないといけない。継続しなかった場合は、またもナレーターは指示に従ってくれないことで自暴自棄になって他人のゲームでもやればと投げやりになる。

そこからマイクラ→Portalの世界に移るが、やる気なくてやっぱり帰るナレーター。

「ボタン押し男に評価されなくたっていいよ」

ゲームに従わないとか、自由度が低いとかゲームに文句を吐く人への皮肉

物置きエンド

このエンドはいいよな。

禅ディング

右、倉庫、リフトの途中で飛び降り、赤ドアを抜ける。

「選択」に疲れたナレーターによって、宇宙っぽい空間に出る。何も起きない。唯一階段から飛び降りることができる。ナレーターは阻止しようと試みる。

それでもプレイヤーは幾度も飛び降りる。もしくはナレーターに従って永遠にゲームに居続けるのもいい。

窓の外エンド

最初のオフィスルームでテーブルに乗って窓から飛び降りる

バグじゃないんだ、仕様なんだ。珍しく「はい」「いいえ」の選択があるが、ゲームっぽいやり方をしたからゲームっぽく返すという皮肉の効いたギャグ。

シリアスルームエンド

チートを使うとこの部屋に飛ばされる。

お仕置き部屋。ゲームのルールを破壊する罰だ。

脱出ポッドエンド

上司の部屋に入った瞬間に出てナレーターを置き去りにする。

自分の部屋の手前に戻って脱出ポッドで脱出。脱出ポッドの説明書きにはナレーターとプレイヤーがいないと正しく起動しないらしい。

ナレーターは上司の部屋に置き去りにしたので永遠に脱出できないので強制リセットされる。

電話エンド

右、倉庫、リフトに乗る、電話をとる。

自宅に帰って、偽りの奥さんに迎えられ、ボタンを押さないと進まないのを逆手に取られて空想ごとにすぎないと説教を食らう。

現実の人間エンド

右、倉庫、リフトに乗る、電話のプラグを抜く。

すべてナレーターのシナリオに反するルート。

台本にない展開にナレーターがスタンリーの背後にいるプレイヤーの存在に気づく。
プレイヤーへの教育がはじまる。

「選択」それが人間の証。現実の人間は無意味な選択が許されない。自分の「選択」に意味があると錯覚し始めた場合、宇宙における自分の小ささを思いなさい。

意味もなく死ぬ主人公の物語に何の価値があるのか。バグったり制作者の意図とは違った想定外の行動を起こさないようにゲーム側が矯正して、選択肢が狭まるルート。

スタンリーが音声入力をするところで、プレイヤーには音声入力の手段がなくて、詰む。ナレーターは物語(作品)に対する敬意がないと怒る。

今度はプレイヤーが部屋の外でスタンリーを見る展開に。

ナレーターが怒ったので退場させられたプレイヤー。しかし、スタンリーはプレイヤーがいないと動かない!

動かないスタンリーに困惑するナレーター。

「選択」しないと物語が進まないんだ。

教訓:プレイヤーがいないとゲームにならない。

天国エンド

コンピュータの入力を5回。

ワオ!大好きなボタンがいっぱいだ!まさにスタンリーにとって天国だ!

実績解除430

430号のドアを5回クリックする実績。簡単に取れると思ったか。

実績解除のためにバカバカしい作業をしたり、させられたりする皮肉。

The Stanley Parableの良いところ

  • どの結末も安易に狂気の展開に走らないところ。
    もっとぐちゃぐちゃの意味不明な展開にもできたが、これはどれもギリギリ理解が及ぶラインにとどまっている。
  • プレイヤーは移動・アクティベート・しゃがむ以外に行動はできないのに、ここまで多様な展開にできること。
    ナレーターに対して行動以外でコミュニケーションをする手段がない。選択ダイアログが出て「はい」「いいえ」だとこの面白さがでない。
  • 体験として行動で示せることの没入感の高さ。
    ゲームの選択ダイアログみたいなゲームらしさは必ずしも面白さとは直結してない。

ナレーターの反応が楽しくてついつい反抗したくなる。たまに素直に従ってみたくなったりも。右往左往するのもの悪くないと思わせられる。

結局何の教訓話?

ゲームにはプレイヤーに経験をさせたいことがある。意図通りに動いてくれて、それを体験してもらうために開発者はアレコレお膳立てする。

一方プレイヤーは決められたお膳立てが一本道で選択の余地がないとしたら、どう思うだろうか? 何のために操作ができるんだ? ゲームである必要性があるんだろうか?

逆に自由度の高いゲームを作ったとしてもそれってほんとに面白いのか?自分で選んでる感覚だけど、実際は全部制作者の手のひらの上だ。自由度を求めるプレイヤーと意図通りに動いて欲しいゲーム制作者って対立するものなのか?

『The Stanley Parable』はそれを身をもって教えてくれる。

プレイヤーが動いてくれてはじめてゲームが成立する。逆にプレイヤーはゲームがお膳立てしてくれないと成立しない。

君が遊ばないとゲームは進まない。ゲームは待っている。ゲーム開発者はプレイヤーを信じて遊んでもらえるようにしないと。

プレイヤーとゲーム(制作者)に信頼関係がないとゲームが成立しない。

これがスタンリーの寓話の教訓ではないか。そしてこれは「現実の世界でもそうは変わらない」んじゃないか。

君が「選択」して「行動」しないと現実というゲームは始まらない。自由意志があろうがなかろうがそこだけは変わらない。

最初に提示した「あなたの選択は本当に自由なのか?」はなんだったのか。もちろん、それも教訓なのだ。ゲームは別に自由じゃない。

ナレーターは状況に応じて、その対応の仕方・態度はまるきり変わる。

爆発エンドのときはひどく優越感に浸ってバカにする、混乱エンドでは取り乱すわ、親身になったりするわ… 自由意志が存在するかどうかなんてどうでもいい話で、状況に左右される。状況によってあらわになる多面性が面白いのだ。

これがこのゲーム醍醐味だと思う。ぜひあなただけの感想を見いだしてほしい。どう感じるかは自由だから。

 

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