『無私の日本人』今も息づく精神

無私の日本人 (文春文庫)という本を読んだ。

タイトルからは最近やたら多い日本礼賛本のように思われるがそうではない。武士の家計簿で有名になった著者、磯田道史さんがどうしても取り上げたかった3人の歴史小説風の本だ。


仙台藩にお金を貸してその利子で吉岡宿を潤す前代未聞の仕組みを成し遂げた穀田屋十三郎。

天才と称される詩家でありながら、役職すら捨てひたすら書を読み込み、さらには書までも捨てて庶民に儒学の真髄を説いた中根東里。

絶世の美女ながら幸せが長続きしなかった家庭生活から尼僧となり、歌を詠み、焼き物を焼き、来るものは拒まず、与えられるものは全て(自身の棺桶でさえ)与えた大田垣蓮月。

太田垣蓮月の名前は知ってる方がいるかもしれないが、いずれせよ無名に近い3名だ。

無名ではあるがその精神性は今でも息づいてるからすごい。

無名に近い人たち

吉岡宿の人たち

吉岡の宿を救った穀田屋含めた9人衆。貧しくて出資できなかったものとの家柄として格差になっては困る。今はいいが、孫の代、孫々の代になるとわからぬ。だから決して自慢してはならないと誓約した。自慢しないゆえにこの話は広まらなかった。

子々孫々であるとか永代までとか、死んだ先まで見通すというのはもはや宗教的で、でもその宗教性が強力なエートス(原点。内燃エンジンのようなもの)を生み出してるような気がした。

ガウディが自分が生きてるうちに完成しないサグラダファミリアを「神の仕事だ」と言うように。

実際、穀田屋十三郎の生家浅野屋は「冥加訓」という教えを忠実に守っていた。人は万物の霊長だから苦しめないよう馬や籠の上に乗らないなど当時にしてはラディカルな思想だ。

そんな吉岡に穀田屋の酒屋は今でも残っている。

中根東里

中根東里は植野村、今の栃木県の佐野市で泥月庵という寺子屋を開く。この寺子屋、のちの植野小学校の元となった。ここの小学校出たのが、かの司馬遼太郎。(そんな話は本には書いてないけれども)

東里は天神として祀られて、東里先生は立派であったと語り継がれている。

太田垣蓮月

蓮月は、西郷にむやみに戦してはならないと歌を送り江戸城総攻撃回避したとか、富岡鉄斎を育てたりの有名なエピソードがある。

焼き物の贋作家を許すどころか自ら焼き物に書く歌を提供したり、盗人が入ったらはったい粉で捏ねた物を振る舞って包みまで持たせたり、そろそろ死期が近いのを悟って自分用の棺桶を作ったのにそれすら村の人に上げてしまったり。

蓮月が死んだときに村人が「これがいくつ目の棺桶やろな?」と呟いて、周りが堰をきったように泣き声をあげた。これには目頭が熱くなった。

寄付したり、物あげたりの利他行動は楽しいのだ。見返りを求めないほど楽しい。過酷な自然化にいた頃の、共存しないと生きてはいけない人間に備わった本性であろう。

魅力的な周りの人々

メインの三人以外の登場人物も良かった。

穀田屋が最初に相談する人物、菅原屋は非常に頭が切れて人柄もよくてこの人なしでは成し遂げられなかったと言っていいほどである。

途中で一人でもお金を出さないと計画が頓挫するので誓約を書くのに、みんな家財なげうってとか妻子奉公に出してとか、重々しく書いているのに、この菅原屋だけは妻がこう言ったというのを延々と書くだけというのが可笑しかった。

あんな切れ者なのに、奥さんにめっぽう弱い。奥さんも「初めから分かってたので今更覚悟を決めるまでもない」のようなこと言っててこれもまた可笑しい。

細井光沢は文武両道あらゆる諸芸を極めてる浪人である。その生活は一日ひたすら書を読んでるだけ。でも義侠心が強くて困ってる人がいたら手を差し伸べたりもする。

この人はそばが大好きで、そばを持ってこられると弱い。というのも好きだ。

細井になぜ仕官しないのですか、と聞くと

「読みたいから読み、書きたいから書く。それが技の道。技を極めれば道が見えてくる。技を暮らしの足しにせず、技をもって道となす。」

というふうに答えるのもこの人らしいなと気がしてよかった。そこにいるのは善人でもなければ聖人でもない、生きた人だったのだと思わせる。

浩然の気

中根東里が孟子、「浩然の気」の章を読み、細かいことにとらわれずに、目の前に美しい大海が広がってることに気づいた。

王陽明全書を読んで、四書五経は月を指す指であって、大事なのは月のほうだと悟る。

今は善行が必ずしも良いとは限らない複雑な難しい時代になった。しかし気負う必要もなければ、虚飾する必要もない。細かいことに拘泥することはない。

技を持って道をなす。地道にやればよいのだ。彼らの残した清らかな精神の風は今でも吹いていると思う。

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