宇崎ちゃんの献血ポスター問題について整理するための雑感。誰かの役に立つかもしれないと思って公開する。レッテル貼りや中傷を超えてほしいなという想いもある。知識不足の自覚あるし、突貫で書いたので文はつど修正する。
4/04 いい記事見つけたので最後に追記
- 否定的な意見の大半は性的過剰なポスターでTPOにそぐわないとする。その裏付けとして性的モノ化論が用いられる。
- 女性の実感の視点としてこの問題提起は重要。しかし、無批判にこれを受け入れるのも却って問題から遠ざかる懸念も抱く。
- 性をタブー化するより、性の解放と主体性を重視するエンパワーメントの潮流・やり方を支持する。
私は問題の解決か改善を重視するが、これは問題設定が各々で違うし、どこに基準点を置くのかの合意形成も難しい話題だと思う。単に気に入らない・性的じゃないみたいな話から、規制やゾーニング・配慮など範囲の問題、抗議が実質的な表現規制に拡張されることへの懸念、批判の妥当性の問題、性的モノ化や男女間の繁殖行動違いに関する議論まで広く展開されている。かなり少数だが献血ボイコットに賛同する人がいたり、逆に献血に関心を持ったり実際に行った人も散見される。
発端
発端はこの英語のツイート。意訳すると「赤十字の仕事は称賛するが、日本では過度に性的な宇崎ちゃんをキャンペーンに使っている。これはTPOにふさわしくない」。これを引用した太田啓子氏のツイートで広まって炎上した。
萌えキャラをめぐる性的誇張の問題は「碧志摩メグ」「のうりん」「駅乃みちか」「ストライクウィッチーズ」がある。また、ステレオタイプな性別役割の問題は「人工知能学会の表紙」。両方含んだ問題では「キズナアイ」がある。それぞれ対応含めて違いがあるので比較してみるといいかもしれない。ゲームならアニータ・サキージアンのFemFreqの件も関連する。
献血
・日本赤十字社は民間の認可法人だが国の指定公共団体でその事業内容からいって、公共性の高い団体といえる。ただしちょっと特殊で、敵と味方関係なく「人命の救助」を最優先とする。国籍、人種、宗教、社会的地位または政治上の意見は差別(区別)しない。
・日本では年間約100万人が輸血している。輸血が直接命を救ってる以上は献血は重要課題である。参照:どうやって輸血するの?
・採血した血液の有効期限は21日間。そのため継続的に献血が必要で慢性的に不足している。
・平成29年度の統計によると献血は男女ともに40代が最も多く、男性の献血者数は女性の倍以上である。ただし、採血基準で年間女性は4回以内、男性は6回以内と差があり、女性のほうが生理や貧血が多いなどの理由で断られるケースもあり献血が少ないのは仕方ない。
・1997年からコミックマーケットで献血バスが配車される。2011年からは協賛企業からポスターやクリアファイルの特典が付くようになった。特典がなくても献血するようになった人がいたり、特典だけが目当ての人は少なかったそう。出典
・この特典やポスターは一般向けのPRではなく、作品のファンへのPR目的で設置している。コラボは宇崎ちゃん以外にもある。それらは問題視されていない。
・2016年のコミケ96時は都内平均と比べて約1.7倍の献血者が集まる。若年層の献血者は10年で30%近く減少しており、若年層を中心に集まる傾向がある。出典
・献血に行ける人はできれば行ってほしい。私含めて献血できない人は、日本赤十字社に寄付や義援金などで支援するのもいいと思う。日本赤十字社の寄付ページ。台風19号被害の義援金も募集している。
乳房と乳袋
・性的な表現がいけないのかは別問題として、現在の日本では乳房は性的な意味合いを持つシンボルである。多くの場合は、乳房が大きいことは性的魅力である。もちろん小さい乳房が好みな人もいる。
・生物的観点。哺乳類のメスは乳房を持ってるが、妊娠や授乳をしなくても膨らんでるのはヒトぐらいである。なぜそうなのかの理由は議論が多く結論は出ない。成長期で乳房は発達し始めるから交尾のシグナルとしての性的アピール説や、妊娠・授乳期に最も大きくなるから、単に蓄えとして脂肪をつけた自然選択であるという説もある。
・乳袋とは、服を着ているのに乳房の形がくっきり見えるもの。どこまでの「くっきり具合」で乳袋とするかは見解が分かれる。詳しくは乳袋論:乳袋の定義や考察参照。厳密にはボディペイント風だけが乳袋という意見もある。そもそも乳袋にリアリティがないという理由で否定的な見解も多い。乳袋は性的ではないという人への批判意見。
・乳房が性的意味を持つなら、その形がくっきりでる乳袋も性的表現である。乳袋の度合いでどこを性的誇張とするかは見解が分かれる。たとえばキズナアイは乳袋じゃないからOKで、宇崎ちゃんは乳袋なのでNG、どっちもOK/NGみたいな線引きが発生する。こういう線引自体が問題点ではないとする立場もある。
・技術的観点。基本的に絵を描くときは体のラインが出るほうが描きやすい。これはマンガ・アニメ・2D/3Dは問わない。布・シワ表現の難しさと、キャラを動かしてもシルエットが崩れにくい、下絵の段階で裸体を描く場合も多くあるため。画力や理解力不足で意図せず描いてしまうケースもある。シルエットがはっきりするのでキャラが判別しやすいなど見る側の視覚的なメリットもある。身も蓋もないけど着衣したまま性的アピールできるという点もある。
・コンテンツの一般化に伴い洗練されていく傾向にあるので、直球なエロコンテンツを除いて不自然な乳袋はあまり見かけなくなりそうな気はする。
様々な意見
・「男性向けに性的誇張されたキャラ」を、「献血という公共の場に使用した」のがよくないという意見。つまり性的誇張されたキャラのTPOにそぐわない論。否定的な意見を持つ人の大半はこれだと思う。では、なぜTPOにそぐわないと思うのか。単純に性的誇張表現に対する不快感や嫌い、羞恥心の問題もある。
そして、この不快感の表明自体は別に自由だと思う。以下は古典的自由主義の観点から説明する。
・他人に危害を加えないかぎり原則的に人は自由である。不当に制限されず好きに生きてよいということ。マイノリティ、不快な表現を含めて国家や民衆の総意や多数決によって制限されてはならない。意見、表現、生き方の自由と多様性が確保されてこそ社会が繁栄する。ゆえにあのポスターを設置するのも自由で、それを批判する自由もある。
これは規制か無法地帯かという2択ではなく、その間にある合意形成を大事にする表現の倫理の側面もある。自分とは常識や感覚が違う人がいて、その人達と共存する必要がある。言論には言論で対抗し、よりよい社会を目指す「思想の自由市場」の発想だ。
しかし、単に不快感だけで公共から性的なものを排除せよとなってしまうと、同性愛者などの性的マイノリティや障害者、ホームレス、人種も同じような論理で排除できてしまうし、実際そうされてきた。だから、ロジックとして納得できる根拠が必要なのである。
・なぜ公共の場で性的な表現がいけないかの論拠となるのが性的モノ化論だ。「性的誇張されたキャラ」を公共が掲示することで、実在の女性も性的モノ扱いしていいんだという意識を内在化させ『巨乳女性はエッチでイヤらしい存在という価値観』を公共のものにすることへの否定。→ラディカル・フェミニズム的考え。あとで詳述する。
・性的モノ化と似た言葉で性的消費もあるが、定義が不明瞭である。思想の基盤として社会構成主義の影響もあって、言葉の定義が文脈依存なためジャーゴン(隠語)化して議論が混乱する。ゲームで言うところのナラティブなんかもそう。多様な立場があるなかで議論するなら言葉はしっかり定義したほうがいい。
・炎上の発端となった発言の妥当性に対する批判。定義上は環境型セクハラではない。環境型セクハラの定義は「労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること」このケースだと日赤の職員が訴えるなら定義どおりである。言葉の定義を拡張するのは議論を散漫なものにしてしまうのでよくない。定義の拡大に怒っている人の意見。
・性的モノ化とはまったく反対の意見で、『非実在の胸の大きい女性』を公共空間で不適切とすることで、現実の胸の大きい女性も不適切だと拡張されてしまうという意見。これまでフェミニズムが獲得してきた女性が好きな格好をする自由の後退。背後にちらつく性的保守化への懸念。→リベラル・フェミニズム的考え
批判する側の説明過程で現実の胸の大きな女性に対しての「奇乳」等の誹謗中傷になっている怒らせてしまうケース、意見
現実の胸の大きい女性への波及を否定するなら、非実在キャラの性的モノ化の悪影響も薄くなるはずで、程度の問題はあるけども矛盾していることになる。
・献血者は男性が多く、男性をターゲットにしたPRがあってもよい。特典によって献血者が増えているのだから些細な問題である。←功利主義的な考え
・あらゆるセクシャリティを肯定するが、それが実社会での性的役割の強化に繋がってはいけないという意見。→セクシャリティの多様性の肯定、性的役割の固定には否定的
・性的表現は女性差別ではないが、萌えキャラでも実在のモデルでも特定の美の理想形だけが社会での標準規範になることで女性の生き方が窮屈になるのは良くない。→理想的な美の価値観が固定化に対する懸念。痩せすぎモデル問題に近い視点
・日本赤十字社の今回の件についての回答。要約すると「あくまでノベルティのためのPRで、セクハラという認識はもってない。ご指摘は真摯に受け止め今後の参考にする」。私はこの対応でよかったと思う。
性的モノ化
性的モノ化(=性的対象化、性的客体化、sexual objectification)とは本来モノではない人を性的なモノとして扱う意味である。もうひとつの意味は、多くの場合は男性が主体・能動的で、女性が客体・受動的として性的に扱われること。逆もある。objectが対象、モノ、客体と多義的でややこしい。
「モノ化」自体は善し悪しとは関係ない。例えば仕事ではその能力を買ったり売ったりしている。NBAや野球のドラフトなどが典型だろう。これが能力ではなく性的魅力が判断材料になってしまったら困る。しかし、人を単なるモノと同列に扱って紙のように切り裂いたり奴隷にしたり強制労働させるのは非道徳的である。そのモノ化された人の本人の意思と目的を考慮してないからだ。
「性的モノ化」自体も善悪とは関係ない。本人の意思と目的に沿って、性的魅力を売り出し地位を高めたりすることは肯定される。そして互いに合意が取れていれば、性的モノ化を使って性交渉することは決して悪いことではない。
そもそも、性欲自体が男性ホルモンの一種であるテストステロンの影響で、これは女性も男性と比べて少ないが分泌される。また、テストステロンがモノに対する関心に影響を与える。男児が生得的に車や電車に興味を持つことと一致する。そうなると、性欲と性的モノ化は不可分な存在に思える。
実感の問題
では、何が問題なんだろうか。反ポルノのマッキノンらとその系譜が言うには、女性をモノとして捉える(まなざす)態度とそれを許容する社会の問題なのだ。
男性が性的に能動的な主体であり、女性が性的な行為をされる受動的な客体(対象)であること、男性から性的な鑑賞の対象とされること、それは女性を人以下の存在と見なされること。そういう女性の実感の問題なのである。
今回の件に関連する身体や容姿に。多面的な人格ではなく、巨乳、お尻そういう非人格的物体として代表させてしまう「身体への還元」。「エロいお尻している」みたいな男性の会話。
もうひとつは美しい身体の称賛とそうでないものは醜いものとしての蔑視する「容姿への還元」。見かけ以上のものはないとする態度。ルッキズムとも言う。
それで、これらの原因を日本では萌え絵などの「性的過剰表現」や「ポルノ」が当たり前に溢れているせいであるとする。多くの批判者は「個別の該当作品をなくせ」と主張しているわけではなく「あまりにもありふれているため、女性をモノとして軽く扱っていいんだという風潮」を批判している場合が多い。それを自覚してもう少し配慮してほしいという要請だ。
この指摘自体は重要だと思う。しかし、ちょっと待ってほしい。本当に萌え絵やポルノがそういう風潮の原因になってるのだろうか?ほんとにそんな一方的なものだろうか?
根源
レイ・ラングトンは性的モノ化のメッセージが及ぼす悪影響を言語行為論を援用して説明する。言語行為とは何かを言うことで何かを行わせることまで含められているということだ。たとえば「ご静粛に」と言ったら、静かにさせる命令が含まれてる。男女不平等なポルノにこうした見下し行為も含まれているとする。しかし、ポルノが、そのまなざしが言語行為なのかの根拠がよく分からない。そして、見下し行為も含まれるのだろうか。これは言語論じゃなくて認知科学の知見を参照したほうが適切に思える。
そして、明らかに不平等なたとえば(演出上の)レイプポルノと、非実在の乳袋表現と同列に語ってもいいのだろうか? 前提が違えば結論も変わるはずだ。
一般的には男性のほうが力があり、性暴力に対する警戒心は男女で不均衡である。こういう警戒心に対する自己防衛の情動としての性への生理的嫌悪感を持つのは無理もない。前述したように、そもそも性欲そのものが性的モノ化とはどうしても切り離せないように思えてならない。性的なモノが悪いのではなく、本人の意思に反することが問題なのだ。
宗教はキリスト教のみならず、仏教、神道にも女性性を抑圧する性道徳がある。女人禁制であるとか穢れであるとか。これが制度や慣習に埋め込まれ、性の抑圧、男女の不平等を招いている。また、良妻賢母であるとか、母性に対する信仰めいたものとか、社会にそもそも性抑圧的なものが埋め込まれている。
どこかしらで「エッチなものはいけないもの」という意識や嫌悪感・忌避感が根本的に含まれていないだろうか? そして根本を辿ろうとすると倫理的にセンシティブな領域になってしまい、社会のほうは複雑に入り組んでいて検証が難しくなっているのは容易に想像できる。
男性の性的モノ化
次に、男性も性的モノ化について考える。性別を反転させる場合は性に対する認識や立場が非対称なため注意を要する。そして、この視点切り替えが別の問題を浮かび上がらせる。
男女の性的シグナルの違いから、この記事では「心が通じる有能なイケメン」を持ち出している。こうした人物・キャラはたいてい男性にも人気があるので通常問題視されにくい。女性のセクシャリティの傾向や男性をも持つ理想像<マッチョ・運動能力・イケメン・心が通じる・知識・経済力・地位・学歴・リスクを取る行動>が重なり、男性は有能でなければならないという規範を形成する。それが男性に過度なプレッシャーを与える「見えない問題化」として現れる。
それらは持たざる弱者男性を社会から追いやり、それが自殺やいじめに繋がったりしてないだろうか? ジェンダー社会学における男性学のマイノリティさも問題に拍車をかけている。
主に女性向けとされるボイーズラブ、ティーンズラブ、ハーレクインやロマンス、耽美モノ、みたいな性の商品にもそうした男性の理想的側面を内在化させ、押し付けられていないだろうか?
「個別の該当作品をなくせ」と主張しているわけではなく「あまりにもありふれているため、男性は有能であれという風潮を強化している」という批判も言えてしまう。男性が守るべき、稼ぐべき、しっかりしているべきだなんて本当にありふれていて問題化されていない。
ただし、フェミニズム批判として弱者男性や女性向けコンテンツを持ち出すのはどちらが被害者かみたいなイデオロギー闘争を引き起こしかねなくて不毛である。少なくとも私はアイデンティティ政治は望まない。
調査
性的モノ化が実際の性犯罪や性差別に繋がっているのだろうか? ポルノ消費が性犯罪や性暴力のあいだの実証や因果関係や、ポルノ消費が盛んな地域では性犯罪が多いなどのデータがあれば議論の裏付けには使える。これは昔から言われてるが、きちんと裏付けられたデータはなかなか出てこない。
むしろ、ポルノが自由なほど性犯罪が少ないという逆の相関が出る。
マンガやアニメの架空キャラクターの影響面ではデンマーク法務省報告「漫画やアニメと児童性犯罪の因果関係は無い」とする。
宗教保守と性的保守が結びついた婚前交渉など性を遠ざける絶対禁欲教育の弊害。
性犯罪になってない暗数や、女性蔑視的な影響も考えうるが、はたしてそれを調査でき、因果、相関、疑似相関と区別がつけられるだろうか?
さらに詳しくは性的対象化の科学的調査の項を参照してほしい。
問題の問題
そもそもラディカル・フェミニズムは政治的プロセスやエビデンスでの問題解決はあまり重視してないように思える。問題になっていない問題を強めに提起して、議論を引き起こし根本的に意識をひっくり返すやり方。問題提起の仕方は炎上商法に近い。
個別には悪くない・風潮が悪いとしながら、個別にクレームつけて自粛を迫る。言語行為論を用いるならば、女性を擁護するように思えて、女性を被害者に固定化する言説と化してないだろうか?
女性を「被害者」という主体性がないような立場に陥れ、権威に都合がいいパターナリズム(家父長主義)を促進し、表現に対する抑圧を招き、性の保守化と結びつきやすい疑念がどうしても拭えない。
そして、多様な価値観への配慮に思えて、当初の意図に反して多数決であらゆることを潰しかねないことにもなる。「不快な人が多いから」の論理が副次的に「異なる存在」「マイノリティ」を追いやる怖さを自覚している必要がある。社会構成主義の立場にあるなら、対話重視してほしい。
性的モノ化という視点は問題提起フェーズでは重要である。しかし、これで一点突破するには根拠が薄いし、無批判に金科玉条化するには強く懸念を持つ。実態の問題からかけ離れた解決しえない「無知」「イデオロギー」「惰性」になりかねない。
問題の解決・改善フェーズではもっと多角的な学術視点が必要だろう。認知科学、生物学、神経科学、犯罪心理学、経済学などの領域である。研究手法の洗練化や実証研究などによって大いに進展している。これらの知見をうまく活用して、よりよい社会を目指すものであってほしい。
そして、昨今のエビデンス軽視の政策、性的保守化や伝統的家族観の復権、政治に対する期待感の薄さと結びついて、もともと同調圧力が高い社会の中でさらに性抑圧的な社会の到来のほうが私は恐怖を覚える。
エンパワーメント
性的モノ化を論拠とした反ポルノ運動はフェミニズムの中でも反発があった。自由を重視するリベラル・フェミニズムや性を積極的肯定するセックス・ポジティブ・フェミニズムがそうだ。それらは「抑圧された性」からの解放を目指していた。好きな格好をする自由、中絶権利の擁護など女性自らが主体性を発揮できる環境を重視している。
その流れを組んで、従順であることを強要する性道徳に反発し、セックスアピールや自己モノ化を積極的に活用して、男性に対して主導権を握る。元々持っている潜在能力を自ら発揮し、自己コントロール感を高めていく女性性の「エンパワーメント」も社会の価値観を変えてきたのだ。
90年代のライオット・ガールやスパイス・ガールズを筆頭に「ガールパワー」ムーブメントを巻き起こし若い女性を中心に「自立し独立した女性」であることを推進した。
個人的な体験で言えば、ビヨンセは衝撃だった。その堂々とした振る舞い、圧倒的なカリスマ性を持って一貫して女性のエンパワーメントを強く打ち出しているが「Run the World」では完全に男女の立場が逆転した。
MVでは「世界を回しているのはガールズ」と高らかに歌い、その存在感とパフォーマンスで圧倒し、男性はうろたえるばかり。自分のものは自分で買うもっと稼げる女たちと女性を鼓舞し、男に「払うもん払え」と中指突き立てて挑発する。
そして、ビヨンセのみならず、リアーナ、レディ・ガガ、ニッキー・ミナージュ、アリアナ・グランデのような後続のアーティストもこうしたエンパワーメントを推進している。
さらなる発展として「ボディパワー」あるいは「ボディポジティブ」がある。女性であることの身体性を肯定し、ありのままでいることによる美の多様性やあり方の拡大を主体的に取り組む運動である。最近ではスリムなモデルばかりだった下着ブランド「ヴィクトリアズ・シークレット」でプラスサイズのモデルが採用された。
他にはビッグサイズタレントである渡辺直美は国内外問わずポジティブに受け入れられている。その堂々とした立ち振舞いに面白さやかわいさやかっこよさに加えて、勇気をもらう人たちもいるだろう。
こうやって、自らの性や身体性すらエンパワーメントして、男性的な価値観や従属関係を打ち壊す。性のタブー視する路線とは真逆の方向に進んでいる。
本邦ではそうしたエンパワーメントを主に担ってきたのはマンガやアニメ、ゲームなどのオタクコンテンツだと思う。それはかつて批判されたセーラームーンだったり、自立した女の子たちが描かれるプリキュアだったり、歯に衣着せぬ発言をするキズナアイだったりする。
かっこいい自立した女性が描かれ、女性だってときに男性だってポジティブな影響を与えてきたはずだ。そもそも、キャラクターの外面・内面含めて魅力的で愛される存在あってこその萌えである。
そこで発生する性的モノ化された鑑賞自体はなんら深刻な問題ではないではないと思う。女性にエンパワーメントを与える作品があるのと、ポルノ的な鑑賞や作品は共存しうる。伝統的価値観や現実から縛られず、女性もBLなりを通して性商品として楽しんでいるのは、むしろ喜ばしいことさえ思える。本当に深刻なのはいつだって実際の性暴力や性的搾取のほうだ。それは断固許してはならない。
男女関係なく多様なコンテンツを自由に好きに楽しめる世の中であってほしいなと切に願う。それとは別に表現や表現のあり方を批判する自由はあるし重要である。
それでも、私はいち創作者として作品には作品で対抗してほしいとも思う。これはただの願望。今の時代、創作は多くの人に開かれている。力(ノウハウ)はいくらでも出すし、逆に私も支援してほしいぐらいだ。
エンパワーメントを持った作品でもそうでなくても、主体的に作ってほしい。書いたり、歌ったり、踊ったり、作り替えたり、遊んだりでも表現できる。他にも作品に感想書いたり、ファンレター送ったり、褒めたり、薦めたりできたり主体的に関わり支援することだってできる。
でも、全員がそうじゃなくてもいい。みんながビヨンセになれるわけじゃない。エンパワーメントがふるい落としそうな、保守的な受動、怠惰、ダメさ、後ろ向きさ、そういった「世の中キラキラしたものばかりじゃない」のも同時に大事にしていきたい。
2020/4/4 追記:エンパワーメントも変化しつつあることを執筆時に言語化できなかったけど、ちょうど同時期に書かれた以下の記事でうまく表現されている。人の楽しんでるコンテンツを否定的に取り扱って反感を買うのか、バックグラウンド含めて応援したくなるようなコンテンツを生み出していくのか。私は後者のほうを応援したくなる。
http://blog.pr-table.com/arca-ladyknows_tsuji/