ズートピアは近年のディズニー/ピクサーの映画の中でも素晴らしい出来で、もちろん私はこれが一番好きだ。
監督3人、脚本家7人という力の入った態勢で、ストーリーは間違いなく現実の社会問題と社会心理学に基づいた高度なものなのに関わらず、笑顔で帰っていけるようなエンターテイメントの魅力もきちんと両立している。
ディズニーが「単に夢物語ばかり作ってるわけではない、ファミリー向けだからって生ぬるくて安っぽい主張は出さない」という気概に圧倒された。
深いとかで喧伝されている人種差別的なテーマと捉えてしまうと日本人にはなじみが薄かったり、なんとなく避けたい気持ちを持ってしまうとちょっともったいないなと思った。差別はテーマの一つではあるんだけども、分解すればもっと広く適用できる話だ。
以降はネタバレあり
映画のテーマ
この映画はよく言われている「人種差別」がメインのテーマではなくて、もっと話を広げて普遍的な「心理エラー(=認知バイアス)」、もっと簡単に言えば「人はよく失敗するのでどうすべきか」の話に思えた。
ニュースキャスターが各国の代表的な動物な仕様は小ネタなんだけど、単にアメリカの差別問題だけではありませんよ、もっと普遍性のある話ですよってアピールだと感じた。ちなみに日本はタヌキ
ステレオタイプ
ズートピアではステレオタイプをうまく使って話を組み立てている。たとえば物語序盤でギデオン・グレイといういじめっ子のキツネが出てくる。ジュディがいじめの仲裁に入るシーンで、ギデオンはジュディを爪でひっかいてケガをさせる。
このシーンの意味はジュディが理不尽な思いをしてより警察官になりたいという動機の強化になった。それに加え、ジュディがキツネに対していい印象を抱かなかったり、(鋭利な爪を持ってる)肉食動物に対しての潜在的な恐怖がここで刷り込まれている。これは同時に観客もギデオン=「悪いヤツ」という印象を与えている。
ここでステレオタイプが働くと、ギデオン=悪、ほかのキツネもどうせ悪いんでしょって直感でそう思い込みやすくなる。
話は進めて、この話のもう一人の主人公ニックの登場シーン。キツネに対して警戒しているジュディはニックを怪しいと思って尾行する。しかし、予想に反してニックに悪い印象は抱かない。お店で差別され、子どものためにアイスキャンディが買えないと嘆き、むしろ同情的になる。ジュディも、観客も。
しかし、二重のトラップで「キツネにもいい奴はいるんだ」と思ったら、ただの詐欺師でだまされていた。「キツネ=悪」の構図は強化される。
後々、ニックはそんな周囲のステレオタイプな見方によって自分の夢をへし折られたことが明かされる。状況が追い込んだそうならざる得なかったキツネであって、けっして性根が腐ってるわけではなかった。
笑いのネタも多くがステレオタイプで構成されている。ナンバープレートの照会に行くとそこの職員の全員がナマケモノで遅いってのは、現実世界でも「役所仕事的=遅い」から大人はそこで「あるあるネタ」として笑える。
受付がしょっちゅうドーナツ食ってるのも、悲しいときにラジオで悲しい曲しか流れないのも、ステレオタイプとして刷り込まれてるから笑える。
黒幕の副市長も羊=「おとしない」という先入観とジュディに対して良くしてくれるのでいい人だという刷り込みがあるから、黒幕だと気付きにくくしている。
キャラクターが動物なことでその動物に対する一般的なイメージもうまく使っている。
なぜ動物の擬人化なのか?
もうひとつ動物のキャラクターである利点は弱肉強食を克服した世界でも、本能に対して抗えない瞬間があるのを視覚的に表現できるからだ。
ジュディの警戒しているときに耳のほうが速く動いたり、カワウソのオッタートン夫人が嬉しがると四足歩行になったり。その動物特有の行動がつい出てしまう。
じゃあ動物の抗えない本能があるように人間にも抗えない本能がある。それが「認知バイアス」があって、そのひとつがステレオタイプだ。
決めつけちゃうから、多くの状況判断が短時間で済む。レッテル貼ってまとめちゃえば頭がごちゃごちゃしないで済む。
チーターは足が速いのが一般的だ。しかし、あそこのチーターは足が遅いかもしれない。そんなこといちいち迷ってたら死ぬ。人間は野生で暮らしてた時期のほうがずっと長い。
バイアスはそこで獲得してきた生き抜くための本能である。そして、人間はそれを克服できる理性を持ち合わせている。ただし理性はむちゃくちゃ弱い。
この映画のすごいところはステレオタイプなどのバイアス自体は否定しない。前述のとおりステレオタイプのネタを作って笑わせたり、心理トリックで観客を誘導したりで使いまくっている。ズートピアの住人がつい野生性が出てしまうようにとくに感情的になったときに人間も出す。
たとえば、ニックは詐欺師の経験則を生かして「犯罪者ってこういう思考するだろ」って決めつけの推論で見事に予測をあてて活躍する。倫理的には反するが警察官の犯罪捜査で、ステレオタイプ的なものの見方は有用である。
そして、詐欺師は人のバイアスを突く商売だ。だから副市長との対決もだまして勝つ。そこが最高にクール。
ステレオタイプやそれを生み出す原理の代表性ヒューリスティックは克服するのがものすごい難しいことで、心理学を熟知しているとか、むちゃくちゃ頭良いとか善良であるとかは、ほぼ関係がない。
特に個人的な体験や信念に基づいたものは簡単には捻じ曲げられないのだ。だから、ステレオタイプの存在を否定したりすること自体は必ずしも有用ではない。
誰でも間違えることを認める
たとえばジュディの親は善良だが、キツネに対して差別的な偏見を持っている。善良だから差別はしない、とはならない。そして、一人娘のジュディを心配する親心からくるものでいたって自然なことだ。別に悪意があるわけではない。でも、こういう否定しにくい偏見が差別的な空気を作り出してしまう。
副市長も陰謀で不安陥れただけでも悪い存在だが、内集団(=草食動物)に対しては優しかったり、大多数がよければ多少の犠牲はしかないという功利主義的な考えの持ち主に思える。また、そういう考えに至ったのもライオンの市長にこき使われていたという状況の問題もあるだろう。
人の行動は状況が大いに影響を与えるものだ。人は外部の状況を過小評価し、内面の特性を過大評価する「対応バイアス」によく陥る。しかし、問題はしばしば「状況」のほうにある。
ジュディは有能で努力家で善意にあふれているが、あいまいに記者会見で答えてしまい肉食動物の差別がかえって助長されてしまう失敗を犯す。
人の心理に「見たものがすべて」と思い込む性質があったり、因果関係のありそうなことを正しいことだと思ってしまう性質がある。凶暴化したのを見たのが全部肉食動物だったから、なんとなく因果がありそうだと思うのはいたって自然なことなのだ。誰だってこの間違いは犯す。
この過ちを見てジュディはバカだと誰が石を投げられるのか、石を投げて何が解決するのか。自分だってやってはいないか。では、いったい何をすべきなのか。
ソフトでハードな着地点
失敗して挫折したジュディは田舎に帰り、すっかり丸くなったキツネのギデオン・グレイと会う。
ギデオンは子ども頃の過失を素直に認めて謝る。あのときは自分に自信がなくて、暴力的にふるまうしかなかったギデオン。ギデオンもきっとニックのようなキツネに対する偏見の犠牲者であった。
ジュディも謝る。自身も正義面してギデオンを追いやってたんではないかと。もっとお互い理解する手立てはあったんじゃないかと。
ジュディはギデオンと両親との会話から問題解決のヒントを得るが、確たる証拠はない。そこでとった解決策はニックに頼ること。今までのジュディは独りよがりだった。独りよがりだから間違うんじゃない。どうしたって間違うんだから「他力」によるサポートが必要なんだ。
あのとき頼るのはニックじゃなくて直接の上司であるボゴ署長でもよかった。でも、ジュディにはない冷静さと分析力によるフォローが必要だったからニックなのだ。逆にニックは厭世的で行動力がないから、うまく補完しあえる関係である。
だからこの映画のテーマは「差別はよくないからやめよう」じゃない。偏見をもったりすることは誰しもやりうる。状況が差別を作ったり助長することもある。それを防ぐためにお互いに頼ったり、相互理解に尽力しよう。
失敗や偏見なども含めた多様性を許容できる度量を持った社会を一緒に作っていこうってメッセージだと受け取った。
もっと心を広くというソフトな着地点ではあるんだけども、善と悪、差別と被差別とかそういう二分法に基づいた世界みたいな、そんな雑な分け方のできないハードな面もある。
批判対象に大して理解もせずに凶弾して個人攻撃して追いやってないだろうか。あなたが度量のない社会や状況を作ってないだろうか。ナイフのように鋭く突きつけてくる。
個人だけできることなら心理バイアスに抗って生きるってとてもしんどいことだと思う。
唯一抗えるのが理性ではあるのだけども、理性は使うのに大変労力がいる。さらに自身の信念、個人的経験、正義感に疑いを持てないと意図せず人を追いやったりするかもしれない。これを常に考えながら生きるのはストレスにもなる。
個人ではしんどい、だから「他力」も頼ろう。
この映画のすさまじいのは、これを「凝り固まった大人」向けの映画ではなく、子どもも見れる大衆娯楽に完璧に落とし込んでいることで、まだ経験が浅くて頭の固くなる前の子どもに刷り込んでおくことができるところ。
これ見て育った子どもの時代になったらもっと度量のある世界だといい。
インタビューや制作過程から丁寧に追った記事
『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか?。
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