『ノマドランド』はキャンピングカーに車中泊しながら仕事を求めて放浪する季節労働者を描いた映画である。
石膏業で栄えた街エンパイア。産業の衰退により街ごと閉鎖され、主人公のファーンは夫を亡くし社宅を追われた。そしてキャンプカーで暮らしながら働くノマド生活を選んだ。アマゾン倉庫の臨時雇で知り合ったリンダ・メイの勧めでノマド生活者の集いに顔を出すことになったファーンは…
説明的なセリフもなく、大きな事件もなく、淡々と進んでいく。説明だけ聞くとなんだか堅苦しそうだが、社会派の要素はあえて薄くなっている。個人の人生、生き方、日常のちょっとした喜びや悲しみ、内面に焦点が当たり、荒野の雄大な風景を舞台に旅するロードムービーだ。
主演のフランシス・マクドーマンドが『ノマド 漂流する高齢労働者たち』というルポ本の映画化権を買って映画化された。マクドーマンドはクロエ・ジャオ監督の『ザ・ライダー』に感銘を受け、監督のオファーをしたところジャオは快く受けた。
メインキャラクターのファーンとデイヴ以外のノマドは実際のノマド生活者である。撮影期間中は監督も役者も車中泊で行い、なるべく実際の生活者の目線に注力しているのが分かる。
主演のフランシス・マクドーマンドはもはや演技なのかわからないレベルで、他愛ない会話や動作、見つめる目で、我々の日常目線の喜びや悲しみを体現してて身近な存在に感じられた。
荒んだ美しい風景とカット割りに抑制の効いた演出、人に対する中庸な視点、ちょっとした日常描写に優れていて、率直に言って好みの作品だ。
社会派映画にありがちなのは、社会の犠牲者となったかわいそうな人たちとして上から目線で当事者を扱ったり、逆に距離感が近く温情的すぎて白々しかったりする。工場のライン作業が人格が剥ぎ取って均質にするのと似ていて、すごく画一的な扱いが気になったりする。そういうのがこの映画にはない。いろいろな型にはめる前にまず人間であることが尊重される。
一人ひとりにそれぞれの生活と人生があるし、プライドや自律がある。そういう者として描かれる。
この映画で思い出したのが以下の中田大悟さんの話。
僕が小学生の頃なんですが、故郷の街の基幹産業だった造船が、造船不況の直撃を受けて壊滅したんですよ。造船の労働者、技術者たちは田舎街の数少ない「高給取り」だが、この人達が路頭に迷った。当然その家族も巻き添えを食い、家族ごと街を出た者も多かった。街の人口減少が始まった。↓
— 中田大悟 NAKATA Daigo (@dig_nkt_v2) July 14, 2020
ツイートのまとめ:https://sumatome.com/su/1283065184437694464
もう一つ思い出したのが『ゴールデンカムイ』の監修者が「アイヌを虐げられた気の毒な人たち」として一切描いていないことを称賛していたことだ。
記事:『ゴールデンカムイ』監修者がおすすめ アイヌ文化を知る厳選12冊
自分の人生は自分で選んでコントロールしている感覚、自律性(Autonomy)が個人の幸福においては重要で、それは被害者や犠牲者に焦点を当てる社会系の言説や学問と相反する部分がある。
自分がノマドだったら、不況のかわいそうな犠牲者というよりはやはり自律を持った個人として扱ってほしいと思う。しかし、不況の煽りを受けたのは事実で、綱渡りの生活は厳しく、手放しに褒められたものでも、これが私の生きる道と強く肯定するのも違う。
状況に翻弄された面も自分で選んだ道でもあるという曖昧なラインを描写するバランス感覚がこの映画の優れたところである。
感想
19世紀末から20世紀初頭にホーボーと呼ばれる人たちがいた。不景気の時代に、ときに鉄道に無賃乗車して渡り歩く渡り鳥労働者のことだ。開拓精神と自由を体現した存在としてしばしば憧れの対象になり、アメリカの文学や音楽に影響を与えた。彼らがトールテイル(ほら話)を広め、民話の伝承をしてきた。ホーボーを題材にしたゲーム『Where the Water Tastes Like Wine』もある。
ファーンの妹が言うように、現代のノマド労働者は開拓民の伝統を受け継いでいるのかもしれない。焚き火を囲んでその人がどんな生い立ちかじっくり人の話を聞くのは現代のホーボーのようであった。とくにスワニーのツバメの話は臨場感あふれていて印象に残った。
現代のお話で面白おかしい滑らない話やキャラが立ってることは重要ではない。個々の人生には日常のどうでもいいことこそ愛おしく豊かである。キャラ化されない領域、親近感のわく描写がたくさん散りばめられている。
おっかなびっくりで犬を撫でる、電動ドリルを無駄に回す、下痢してちょっと焦る、リンダ・メイと保湿マスクをするバッドランドスパ、ワニを見て談笑する、赤ちゃんをあやす、デイヴのピアノを階段で見聞きする。
デイヴや妹の家で暮らす選択は結局しなかった。そのほうが安心で幸せなのは分かっている。なんでしなかったのかははっきりしていないが、「はい」や「いいえ」で答えらないことはたくさんある。自分で選んだ道だけど、無頼や自立と言えるほどかっこいいものでもない。その曖昧なニュアンスをそのまま残してある。日常には自分の選択をはっきりと説明できない領域がある。
そして、終盤に石材屋でタバコとライターをあげた若者デレクに再開するシーン。ガールフレンドへの手紙に何を書いたらいいか悩むデレクに、ファーンが結婚式のときに詠んだシェイクスピアのソネット18番を暗唱する。
君を夏の日にたとえようか。から始まる詩だ。夏の日というのは人生の全盛期、それはとっくに過ぎ去り冬の終わり、人生の終焉が近づく老人が夏真っ盛りの若者に詩を授ける。夏は短いが詩にしたら永遠だ。
このソネットの最後の二行がまさにこの映画を表しているかのようだった。
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
筆者訳:人が息づき見続けるかぎり、永遠に詩は生き、君に命を与え続けるだろう。
かつてのホーボーたちは真意のわからないほら話を言い伝えた。この映画は話こそフィクションだがノマド生活者の生き様を写し取り、誰かが見続けるかぎりは命を与え続けるものとしてリアルに丁寧に描いている。時代の波に取り残された人たちではない。一人ひとりの人生、背景を持った人たちとして残すのだ。