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『ダンジョン飯』7巻までの感想 – 境界と思考をときほぐす

ダンジョンに生態系があるなら、人間もダンジョンで魔物を食っていけるはず…

『ダンジョン飯』はRPGによくあるダンジョンで魔物を食べて進んでいくマンガだ。馴染みのあるファンタジー世界をコミカルにロジカルに再構築していく。ユニークで納得感高い解釈への驚き、あふれる生活感、多種多様な愛おしいキャラたち。

それに加えて、たまに学習マンガじゃないかと思うほど理知的で、調理の仕方、パーティでの心得、道具の使い方・作り方、生物の生態など扱う内容が多面的でありながら、押し付けがましさや複雑さをまるで感じさせない。そして、ダンジョンも深い階層に進むに連れ、話もディープになっていく…

作者の九井諒子さんは日常とファンタジーを溶け込ませるのが抜群に上手で持ち味だ。空想と現実との境界を曖昧にさせていくことでどちらも豊かになれる。そう信じている。いや信じていい作家だ。たつき監督ぐらい。時折見せるドライさや残酷さも、おざなりにしないじんわりした優しさが通底にある。

短編集『ひきだしにテラリウム』に収録の4作品がweb公開されているので、どんな作風かを知るのにどうぞ。「夢のある話」は可笑しみと哀愁、ドライな温かさがあって好き。

『ひきだしにテラリウム』特設ページ

以降はダンジョン飯 7巻までのネタバレあり
まったく未読の人は1巻からどうぞ

最新の7巻はこちら。

 

マルシルにお腹いっぱいシュークリーム食べさせてあげたい。7巻発売記念で描いたもの

 

魔物、魔物食、魔法、種族、どれもそれぞれで認識が違う。この認識のズレは対象との距離感にある。魔物に詳しいほど、魔物食には好意的である。

ライオス>=センシ>チルチャック>マルシル>イヅツミ

逆に対象との距離感が遠いほど偏見が強い。禁忌とされる古代魔法はマルシル以外はとんと縁がないので皆から「黒魔法」呼ばわりされる。マイヅルには東方に少ないドワーフとノームの区別がつかない。

こうした偏見とどう付き合っていくのかが自然と『ダンジョン飯』にはある。偏見は錯視のように不可避だが、多角的な視点を持てばうまく付き合っていけるかもしれない。

『ダンジョン飯』の種族にはそれぞれ特性があって、そのためか偏見も強くでている。しかし、ダンジョンを攻略するうえでパーティの協力が欠かせない以上は、異種間の得意分野を生かしてパーティを組んだほうがうまくいく。つまり異なる他人とどうやって折り合いつけて維持し発展させるかにかかっている。

ライオス一行は優秀な変わり者の集まりである。加えて、それぞれ育ちの良さを感じる。成り行きで一緒になったイヅツミがパーティでは異端だ。そんなイヅツミがパーティに触発されて成長する姿と、逆にイヅツミが率直に疑問を突きつけパーティに変化をもたらす。

そんな彼らが一番深層に潜っている。冒険者の中では特別強いわけでもない。カブルーの見立てでは魔物知識の豊富さが武器である。しかし、単純にそれだけではない。

知識を持ち、観察し、工夫し、反省し、規範を守り、協力し、ときに領分をはみ出し、腹をくくって勇敢に立ち向かい、よく食べて寝る。

本当に基本的なことなんだけども、ファンタジーであれ現実であれ大事なことはそう変わらない。

反対に意固地になったり、無茶したり、利己的に動いたり、うかつに行動すると失敗して死にかける。勇敢と無茶は紙一重だし、失敗はたくさんしてきた。そしてなぜ失敗したか、そこからどう修正したかまで扱う。

失敗から学ぶ

センシの魔法嫌いはドワーフの魔法適正低さからきている。それを強化するのが安易さを嫌って手間をかけることをよしとする性格である。はたして種族の特性とその人の個性とで分離可能であろうか。

2巻では水上歩行魔法を嫌がってケルピーに騙された。その失敗とマルシルの石鹸作りを見て、考えが少しだけ柔軟になる。ヒゲとともに。魔法も万能ではなく学ぶ必要があったり、苦労があることは作中で度々示される。これは魔法をデジタルや科学に置き換えても成立する話でもある。

チルチャックは私事や仕事、役割もきっちり分けたがる。鍵師の責任が重いことと、ハーフフットが戦闘に不向きであるからだ。そして、ハーフフットが詐欺や盗賊に加担する者も多い世界で生き抜くために、ビジネスライクに振る舞ってきたのだろう。そんな世界だから組合を通すようにルール整えたりで尽力してきた様子である。

その反動でか仲間に頼らなかったり、本心を打ち明けるのが苦手である。1巻の罠でのかき揚げ回にて、お互いの領分をはみ出るメリットもあるのだと学ぶ。2巻ではミミックがいることを隠して、うかつに単独行動して死にかける。そのあとで年齢を告白する。

本心を打ち明けるのは苦手のままだが、必要な局面では言えるようになった。そこに仕事人らしさもある。5巻のオークの族長妹に指摘されて「死なせたくない」から引き返しの提案する。7巻ではイヅツミがセンシに対して素朴な疑問を呈す。グリフィンを倒したあとに弱ったセンシにまず声掛けたのがチルチャックであって、困惑しながらも自分から素性を打ち明けるのに繋がる。

マルシルは努力家で、優等生で、面倒見がよくて、マメで、快活で、好奇心旺盛で、どんくさくて臆病だ。ときに強気だったり貫禄あったり厳しかったり多彩な側面がある。学校での才女ぶりを誇るのは自己評価の未熟さの裏返しかもしれない。長寿な種族ゆえに親しい人が先に死ぬのを恐れ、夢のときはいつも子どもで、パーティの役に立つことで埋め合わせてるように思える。それも向上心と表裏一体である。1巻ではマルシルが役に立てなさを焦ってマンドラゴラを勝手に引っこ抜いて失敗する(1巻)。そこで得手・不得手があるから、仲間に頼っていいことを学んだ。

空気の読めなさが仇となることが多いライオス。魔物の危険性を十分把握しているのにも関わらず、ケン助のことを黙っていた。そのためレッドドラゴン戦では想定外の事態に追い込まれる。原因をたどれば周囲に馴染めなかった過去があり、シュローから苦手と言われたことも気にしている。心ないわけではないのだ。そして本人なりのやり方で折り合いつけようとしている。

6巻ではシェイプシフターの偽物判別を得意分野の魔物との距離感を絡めて解決し、7巻ではライオスから改めて自己紹介をしようとチルチャックに提案した。そして、あえて空気読まずにセンシにグリフィンを食べることも提案した。チルチャックの「余計つかえる」「傷つく」は常識的に正しい。それでもライオスなりに考え、食べたのはヒポグリフであると到達した。仮に全員常識人でセンシの心情に配慮してしまったらたどり着けなかった。そして本当に気持ちに寄り添うことができた。

イヅツミの奔放さは獣性なのか、元々の性格なのか、ますます分けにくい。しかし、マイヅルの呪いで抑圧的に扱われてきた分、好きに振る舞いたい気持ちもあるんだろう。

アイスゴーレム回でイヅツミの金貨盗みをチルチャックが咎めて、悪口を言い合う。そのあとチルチャックとイヅツミが連携してアイスゴーレムを倒し、チルチャックが鞄を縫ってイヅツミに渡す。そしてチルチャックが謝ったうえで「団体行動にもいい面もある、できないことを任せられるから」と言った。困惑しながらも鞄を受け取り、ごちそうさまでしたの「した」だけ合わせた。合わせることの意味を少し理解する。

次のバロメッツ回では、「仲間に頼っていい」を学んだマルシルが好き・嫌いと得意・不得意、できる・できないを分ける。「嫌いを全部避けたらどんどん遠回りになる」とマルシルなりに考えた結論に、回想の中でタデが言う「ご飯は3食、布団は暖か、お風呂にも入れる、たまにご褒美のお菓子」という素朴な幸せが、イヅツミのなかで結びつく。肉のような野菜を食べながら。野菜・魔物の食わず嫌いからマズい野菜・魔物嫌いに進歩する。論理的な帰結と素朴な感性が合わさってなんだか愛おしい。踏み出してみないとわからないこともある。

チルチャックの口の悪さや、マルシルのどんくささや、ライオスの空気読めなさはたぶんこれからも変わらないだろう。それでも一言で表せられないものへと変わっていく。

境界と思考をときほぐす

キャラには輪郭固定の性質があって、服装や髪型は変化しないほうが分かりやすい。記号としてのデフォルメだ。ところがマルシルは毎日髪型が変わる。それでもマルシルと認識できるし、マルシルはマルシルなのだ。

物語上成長して外見が変わるのはよくあるが、そういう意図もない。髪の手入れが魔法にとって重要であるが、毎日の髪型変更は純粋に楽しんでやってる。

なにがマルシルたらしめてるのかと言うと前述のとおり多彩な側面がそうさせている。女性である、エルフであることは切っても離せないが、要素のひとつにすぎず性質との境界は曖昧だ。それをファンタジーだからこそ多面的に切り崩せる。シェイプシフター回での認識のズレ、次巻に収録されるであろうチェンジリングの話で(たぶん)どんどん認識を崩していく。

現代の話を少しする。インターネットに常につながるようになって、圧倒的多数の中のひとりになった感覚がある。そのなかで相手の内面に深入りせず、互いが傷つかないように優しい関係を築いたほうが生きやすい。だが圧倒的多数のなかで表層ではない部分を見てほしい、いわゆる承認欲求がある。それは固定的なキャラ化、あるいはクラスタの一員として固定的に振る舞ったりして満たす。優しい関係は裏で空気の読めない奴への憎悪へ、キャラ化は炎上や硬直化を助長させる。インターネットは良くも悪くもそういう性質を増幅させやすい。答えのある話ではないし、私もどうするのかは日々模索している。

話を戻して『ダンジョン飯』。ファンタジーと現実との曖昧な接近が「これは我々の問題にも通ずるものがある」と思わせられる。回復魔法を覚えるライオスに、皮むきがうまくなるチルチャック、魔法を受容できるようになったセンシなど、互いにちょっとはみ出して成長する。マルシルの魔物食への忌避感も案外バカにできない話に思考が少しほぐされる。

境界も思考もほぐしていく。「創作や物語には別の視点をもたらす力があるよね」そう改めて思い出させてくれるのだ。分断が叫ばれる世にますます重要になるだろう。九井さんは個人サイト時代から創作を続けてきて、それが作風の境界の曖昧さとは無関係ではないはず。インターネットが多様な文化を可視化させてきた面もあるのだ。複雑な迷宮のなかで自然と学び培ってきた冒険者である。そうした作風が好きだし、同じくインターネットと接してきた感覚的近さも勝手に感じている。

デビュー作の短編でもファンタジーと日常が入り混じり、共生や多様性についてコミカルにロジカルに描かれる。興味のある方はぜひ。表題作は傑作。カノハシかっこいいんだ。