ミュージカル映画は過去の名作が山ほどあるなかで、デミアン・チャゼルという32歳の若い監督が現代の感性をうまく映画に落とし込んであることがよかった。
夢追い人や表現者にハリウッドを舞台に素敵でハッピーな夢を魅させるというより、等身大としての人を見せることでより観た人に寄り添うような映画になっている。それは自分の人生観が投影されるということなので、ある程度の苦さを噛めしめつつ現代の感性を受容できる人は楽しめると思う。
私がこの映画が好きなところは、押し付けがましいところがないことだ。
予告見て王道のミュージカルハッピー映画だと思ったけどだいぶ違う。現実的な地に足をついた世界とふわふわした世界が共存している、まさしく現代を描いた作品なのだ。
ミュージカルというフィクションとリアリティの両立
現代の映画だと映像が綺麗に撮れるかわりに一定のリアリティがないとどうにも違和感がある。ミュージカルの形式そのものがフィクションなので、これをどう見せるかという課題がある。
オープンニングでこの映画でのミュージカルのあり方が示される。まず退屈な渋滞シーンから始まり、チャイコフスキーがテキトーに作った序曲1812年がカーステレオから流れる。いろんな人がいろんな音楽を聞いている。
趣味趣向は本当にさまざまである。そして、その退屈な渋滞を吹き飛ばす、皆で歌って踊るとても心躍るミュージカルが展開される。これも踊り方はほんとうに様々である。
この多様性に富んだシーンから一転、みんな何事もなかったように車に戻り、いらついた様子でクラクションを鳴らす。
そう、ミュージカルは願望を描いたフィクションなのだ。最高にハッピーで楽しい虚構としてミュージカルシーンが展開されるのだ。
しかし、虚構であっても、感じる気持ちまでも嘘ではない。次のミュージカルシーンである、パーティ前の心躍る感じ、なんとなく馴染めない感じの感情を想起させる、そういう表現手段として巧みに組み込んである。
紫がかったロサンゼルスの夜景をバックに踊るシーンは綺麗で印象的だったが、彼らにとっては見慣れた日常で、ロマンチックでも何でもない。なのにこのシーンで確実に二人の距離は縮まった。大してロマンチックでもない現実感とロマンチックなミュージカルが同居している。
セブのピュアで古典的なものしか愛せないジャズ観ははっきり言って偏狭で、ジャズを衰退させた元凶とも言われるジャズ警察そのものである。私もこの手の考え方は嫌いで、風当たりが強いことは描かれるが、この映画のよいところはそれでも否定はしない。
セブは大学の同期のキース(ジョン・レジェンド)のバンドに誘われる。自分のジャズバーを開くという夢のために渋々受けることに。ポップで商業主義に走ったキースのことはセブは否定せず、変なヤツで片付けて折り合いをつける。
キースもセブもお互い分かってるから、キースはセブを尊重して一部ジャズのエッセンスを残し、セブはなんとかバンドを継続できた。
そして、キースはポップ曲で堂々とライブを行う。実力あるジョン・レジェンドが起用されてるだけあって、ここのシーンはとても説得力あって好きだ。
大衆に媚びて商業主義に走ることを否定もしないし、強く賞賛もしない。
堂々とそれでもあってよいということが描かれているように思えた。
物語的にはキースと対立したほうが複雑で深みが出そうだが、そこを描いてしまうとどちらが優劣かになってしまう。
最後の渋滞での分岐から、もしセブとミアが円満な恋愛ができたときの叶わなかった夢のシーンもそう。 こういう二重の世界で展開されて、ネットと供に生きてきた身としてはリアルであることと虚構であることがあいまいなので世代的にはこういう構造は共感できる。※自分だけかもしれないが
セブやミアの努力の部分は極力省いてあって、もうここは当たり前すぎて別にいらないし、構成としてシンプルに仕上がってるのも現代的。
どちらもお互いの夢のことを尊重した結果として大成して、ミアは別の人と結ばれ子どももできた、セブとミアのもう一つの夢も考えるが、最後はきっぱり笑顔でお互いを認めあって送り出す。
いいとこ取りはできないのが厳しく現実的で合理的なストーリーと結末だと思った。 ここは甘ったるく甘美なより、すっきり苦い方がおいしく感じる。 現実見て迎合するのが大人になるのか、苦いのがおいしくなるのが大人になるのか…