映画『沈黙 サイレンス』は信仰をテーマにしている映画なのでとっつきにくさを感じるかもしれない。それではもったいないと思う。
この映画は決して押し付けがましいところがない。解釈はそれぞれ持っていい。沈黙を破って語って欲しいとさえ言うようだった。
マーティン・スコセッシが28年制作を試みては頓挫し、ようやく公開までこぎつけた本作は今の時代に投げかけるメッセージとしてとても考えさせられる映画だ。
映画には多様性がある。爽快な気持ちになるもの、笑えるもの、深く悲しみに覆われるもの、色々ある。この映画は悲痛であったり、宗教であったりする前に、「考える」映画だと思った。
社会に「不寛容」な空気が漂う。思慮のない差別的発言や社会正義の元の言葉狩りなども目につくようになった。
身の上の話をすると、祖父母はキリスト教で、名前も牧師がつけた名前だ。無口な祖父は「優しくしなさい」とよく言っていた。口で語るところは非常に少なくパーキンソン病を患って病弱であったが、行動で示す優しさの体現者であった。
両親も私もまったく信仰心がなくて、特定の宗教を信仰してるわけではない。博愛の精神はなんとなく肌で触れてはいるのでわかるにはわかる。が、どうにも原罪だとか創造神やキリストの絶対性みたいなところに違和感がある。
また対照的に持ち出される「八百万の神」も、都合よく説明したいだけに呼び出される神様という感じがしてなんだかしっくりこない。大多数にとってはそこに信仰はなく、良くも悪くも薄い規範だけを守ってるような気がする。
平たく言ってしまえば日本人の無宗教という宗教は現世利益追求型である。「ごりやく」さえあればそれでいい。なんとも軽薄のような、しかしそれはそれで合理的なような気もする。
作中にも、やたらと物をありがたがったり、パライソ(天国)が現世にある、みたいなシーンで端々に描かれる。厳しい暮らしにすがるところがなにもなくて、そこに救いがあるなら仏でも神でもよい。という印象すらある。
この作品で描かれる信仰のあり方とは何なんだろうか?
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時代背景
ここで時代背景を知るとより物語が深く理解できると思う。
舞台は島原の乱(1637-1638)のあとの長崎。本作主人公のロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラの棄教が1643年なので、そのあたりの時代だ。
一代で終わった、織田、豊臣と違って盤石の礎を築きたい徳川三代目、家光の時代であった。
海外に目を向けると欧州各国が植民地争奪戦に参入した東南アジア情勢が悪化、中国では明の滅亡へのカウントダウンが始まり大混乱、東南アジアの植民地化に伴って大量に胡椒が流入し、価格暴落や銀の流入量の低下などがあった。
スペイン、ポルトガルの衰退と、オランダ、イギリスの台頭で大航海時代は終焉を迎えつつあった。
国内のキリスト教の関係者も素行がいいわけではなくて、キリシタン大名の横領や、仏閣の襲撃、細々とした問題点もあったところに「島原の乱」があって、かなり熟慮を重ねたうえでいよいよ本格的に棄教を迫らざる得なかった事情がある。
武力による制圧や植民地化支配の正当を訴える布教活動者もいて、実際にアメリカ大陸や東南アジアの前例があるので、当然幕府側としては脅威でしかない。
日本での信仰
浅野忠信演じる通詞は「救うという目的でみればキリストもブッタも同じでは?」と問う。
一見、寛容のようで、相手の意見を推し量らず信仰心を無視した服従を強いる不寛容なシーンだ。
作中では明示されないが、通詞は外国語が堪能であの問答ができるだけ造詣が深いとなると、おそらく元キリシタンだろう。嫌な質問だということを分かって心を折りにきているのだ。
ニコニコとした人当たりのよさそうな表面と陰湿で残酷さがでる裏面の二面性、日本人ならなんとなく感じるところはあるのではないか。
一方で、塚本晋也演じるモキチや笈田ヨシ演じるじいさまことイチゾウや村民とともに神父や教会なき村で敬虔に静かに信仰を守る。
まじめに働き、耐えしのび、神父の到来に純粋に喜ぶ人たち。彼らの沈黙の力強さたるや。宗教心抜きにしても心打たれる。
主人公ロドリゴは善良で理性的ではあるが、高慢ちきで、要するに我々が真理を知らぬものを教えてやるという無意識的に出している。日本という国も言葉も仏教も理解せずに。
井上筑後守はあんなむごい仕打ちをしても穏やかである意味狂っているように見えるが、一回だけ取り乱すシーンがある。
「あなたはキリスト教を知らない」とロドリゴに言われる。何か口にするわけでもなく静かに何かをこらえたようにぐっと身を下げて怒る。
井上は元キリシタンで知らないわけがない。ここで井上が元キリシタンなのを明かしてしまったら、同情心がわいてしまい心が折れない。だからぐっと堪える。
井上の思惑
最後の宣教師ロドリゴを棄教させ、結果キリスト教が日本に根付かせるのを失敗させた。
井上はまだ隠れキリシタンがいるが、それでよいのだと言う。侵略の下地としての布教、あるいは教会という権威から切り離された信仰は脅威ではなくなった。また、変質して日本独自のキリスト教観になっていく。
これはキリシタン弾圧の奉行としての立場と、元キリシタンの立場の妥協点としてひたすらに考え抜いた井上が達した結論だと思う。熾烈だが徹底してみせることで反幕府という恐れを取り除いたことを幕府に示し、キリシタンはキリシタンに形式を守らせ、変質させても信仰までは決して奪わないことを示す。
拷問の執行者としての狂気と、温厚さが同居しているのだ。本当に井上がキリスト教に無理解で、思慮のない人であれば問答無用で虐殺することもできたはずだ。
寛容なキリスト観
五島列島についたロドリゴは飢えのあまり理性を失うことがあった。獣のように魚を貪り、水をすする。狂っているとしか思えないときに、水面に移る自分の顔にキリストの顔を見る。
フェレイラに説得され、罪なきものの拷問に耐えかねて、極限の状態と選択に追い込まれたときに、踏み絵を前にキリストの声が聞こえる。
本当に神の声だったのだろうか。防衛反応として自分が自分自身を救うために語りではないのだろうか。もちろんとっさに出るぐらいには信心深いのではある。
それが神かそうでないかどちらであれ、”It’s all right. Step on me.”のもつ語りかける言葉は優しいものだ。
母性のような、弱い人間の同伴者キリストとして現れる。ここが物議を醸したポイントであるが、原作者遠藤が厳格な父性としてのキリスト教に馴染めず、見いだした遠藤なりのキリスト観なのだろう。阿弥陀のような存在にも思える。
形式的に棄教はしたが、最後まで心は棄教しなかった。かつての高慢さはなくなり、心は安寧した。ロドリゴはロドリゴなりに最後まで「沈黙」を守った。
やさしいまなざし
映画の時代のあと、信仰は細々と続いていた。隠れキリシタンが観音をマリアに見立て、沈黙を守ってきた信仰は今でも残る。日本の仏教や慣習に染まって変質したキリスト教は原罪の部分がごっそり抜けて、アダムとイブさえ許す神様となっていた。
まさしく遠藤がしっくりくるような優しく寛容な神だ。
無理解だと決めつけ一方的に真理を説く暴力性と、寛容を盾に同調圧力をかける暴力性を見事に描ききった。これは戒めでもあろう。
ロドリゴ、モキチ、キチジロー、通詞、井上。いろんな信仰の仕方がある。そして許される。
熾烈極まるシーンも多いが映画拝聴後に暗澹たる気持ちにならないのはこのやさしいまなざしがあるからだ。
そして、単に宗教だけの話では収まらないと思う。批判対象者のことを見ているのか、寛容さに甘んじて無自覚に圧力をかけないか。不寛容の時代にこそ響く。もっとこういうやさしいまなざしが必要なのではないか。
ぜひあなた自身が考えて沈黙を破って語って欲しい。そういう映画であった。